翔子はすんと鼻をならした。わずかにわびしいにおいがした。季節の変化にとぼしい海明星でも、風のにおいはすこしずつかわる。リンが部活に顔をださなくなってからしばらくたった。
「ねえ、つぎの授業なんだっけ」
「数学」
「しにたい」
アスタがくわえたストローをがしがしかんで、パックの中身がなくなったことをアピールする。それからまだあまいのがたっぷりのこっている隣人のそれをちらちら見て、あっさり無視されて頬をふくらませた。
ずいぶんとしずかな昼休みだった。いつもどおりの中庭、いままでどおりの時間だった。しかしどうにもしっくりこないのは、いったいどういうわけなのか。翔子はなんとなくポケットをごそごそさせて、そこにあったものをとりだす。
「なにそれ」
彼女の手のなかでくしゃくしゃになっているものを、アスタがとりあげる。それから指でつまんでみて、あっとひらめく。
「あやとりだー」
「うん。しってる?」
「しってるしってる。たしか、ひとりでもできるしふたりでもできるんでしょ」
輪っかのかたちをした赤色の毛糸をひろげてみせて、アスタが得意げな顔をした。そのわりにそこからすすまないので、翔子がとりかえしておもむろに指をうごかした。すいすいと模様をかえていくほそい糸が、おもしろい形をつくっていく。
「すごいすごい」
アスタがこどもみたいによろこんで、あたしにもおしえてとせがんだ。そのくせひとりで勝手にやりはじめて、さっそくからませてしまう。
「アスタは予想をうらぎらないねー」
「翔子のおしえ方が下手なんだと思う」
納得しかねる反論だったが、ここで正当な意見を言ったところでアスタが己の非を認めないであろうことはあきらかなのでうんと返事をしておいた。それから彼女の手のなかでこんがらがったそれをとりあげて、丁寧にといていく。
「まあ、こういうのはね、こんがらがっちゃってもまたほどいてやりなおせばいいんだから」
ね、リンもそう思わない。ふりかえり、自分をはさんでアスタの反対側にいるやつを見おろした。こちらに背をむけて寝ころがった彼女は、猫みたいに身をまるくしている。おや、という顔をしたアスタが翔子ごしにそちらをのぞきこむと、リンはゆっくり身をおこす。それからぽりぽり頭をかいて、ふうんと鼻をならした。
「けど、せっかく糸をほどいたって、相手にやる気がなくちゃあやとりはできないんじゃない?」
こともなげに言い、彼女はひょいとたちあがる。
「あたしきょうもうかえる。先生には適当に言っといて」
「さぼりだ」
「ちがいます、たいちょうふりょーです」
「おなかいたいの?」
アスタがたずねると、リンがすこしだまる。それからふたりを見おろして、かと思うとすぐにそっぽをむいてあるきだしてしまった。そのとき彼女がはきすてたことばはというと。
「耳がいたいんだって」
「そういうわりにはわたしたちのこと完全に悪者を見る目で見てたね」
「余計なお世話ってやつかしらね。てかリンやっぱりおきてたんだー」
「最近あんまり昼寝もできないみたいで見てていたいたしいねえ」
「ねー」
アスタが、またおぼつかない手つきであやとりをはじめる。それから、リンってばあやとりをひとりでやるっていう発想はもうはなっからないんだなあ、とぼそりとつぶやいた。翔子はそれをききながら、アスタの不器用な指先をもどかしげに見おろしていた。
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放課後、思いがけぬ人物を見つけた。二年の教室のならぶこの棟ででくわすにはめずらしい子だった。最後の授業が移動教室だったジェニーは、部活へと急ぐべく自分の教室にもどるところだったが、廊下のさきにいるまさにまちぶせていたふうな後輩に思わず歩調をゆるめた。
「こんにちは、翔子さん。どうしたのこんなところで、急がないと部活に遅刻するわよ?」
「……こんにちは」
平坦なあいさつだった。元来感情の起伏が読みにくい子なので、その低めの声になにかしらの意味があるのかはわかりかねた。足が、完全にとまる。話をするにはあきすぎた距離、ジェニーはすこしいやになった。
「リンのこと、どうするつもりなんですか?」
だって、彼女の言いだすことが、まるではるか昔のことのように感じられるのだ。ちり、と目のおくがいたくなる。あまり、よくない予感がした。なにか言おうかと思ったが、ジェニーはすこし笑うだけにした。はたしてそれが、翔子の目にはどううつったのか。無表情が常の彼女が、あからさまに眉をゆがめた。
「先輩にも、いろいろ事情はおありなんでしょうけど。もうしわけないですが、わたしはリンのともだちなんです。だから、全面的にリンの味方です。先輩にとってはいくらでもいる子のひとりかもしれないけど、そうひとたちにとったら、ジェニー先輩はジェニー先輩しかいないんじゃないですか?」
ジェニーがだまって話をきいていると、翔子も話をやめた。彼女はきっと、反論してほしいのだ。なにを言いたいのかもわからないままいまここにたっているが、とにかくもどかしいのだ。ジェニーならば、とてもいいと思った。自分をいたわらない、すきなことしかできないリンを、彼女自身のかわりに見てくれるにちがいないと思った。でもそんなことはなかった。なにがあったかはしらないが、なにかがあったことくらいはわかる。ジェニーはきっと、リンにひどいことをした。
「……すこし、びっくりしたわ」
はっとした。いつのまにかふせていた目をあげると、ジェニーが笑っていた。まっすぐな視線がとんでくる。瞬間、翔子はぎっと身をかためた。そんなことは気にもせずに、彼女はずっと笑っていた。あなたって、あんまりまわりのことに関心がないのかと思っていたけれど。
「やさしいのね、意外だった」
そちらこそ、やさしい口調だった。だというのに、息をのみ、とにかく彼女を見かえすことしかできなかった。彼女の視線はなににも邪魔されないほどつよくてなにかしらの感情があって、しかしそれがなんなのかは皆目見当がつかない。いびつだ、ふわりとした雰囲気のなかに、ただの一点、不気味な違和感。たしかにふだんどおりのすずしげな口元が目のまえにあるのに、そこにいるのは全然しらないひとのような、そうか、これは。
「翔子さん、あなた、リンさんのおともだちだって、味方だって言ったわね。……とっても素敵ね、それって」
きっと私には無理だから、あなたはずっとあの子の味方でいてあげてね。きわめつけにきれいにきれいに微笑んで、ジェニーがやっと歩をすすめる。背筋をのばしてまえを見て、なにごともなかったかのように翔子のとなりをすりぬけていく。翔子は、ふりむくこともできなかった。
「……なんだよそれ、ふざけないでよ」
「そういうことは本人がいるとこで言わないとさー」
そして、なんとかそれだけつぶやけたのと、うつむいた視界にひょっこりアスタの顔がのぞきこんでくるのは同時だった。不覚にもぎょっとした。
「……。見てたんならたすけてよ」
「ごめーん、そのつもりだったんだけどこわくてでていけなかった」
顔のまえで両手をあわせて、いつのまにかとなりにたっていたアスタが舌をだす。翔子はじとりと彼女をにらみ、気づかぬうちににぎっていた右手をぷらぷらさせてからはあと息をつく。そして脱力したからだをささえる気力もうせて、その場にしゃがみこむ。するとアスタもついてきた。
「……やっぱりこわかったよね」
しみじみと、確認するようにつぶやく。あれは、そう、敵意だった。私情に口をはさむなと、余計なお世話だと言外に語っていた。なんということだろう。ジェニーは意外だと翔子に言ったが、それはまさにこちらの台詞。
「正直、相手にもされないと思ってたから、ちょっと収穫だったかも」
「ね、先輩のほうもそれくらいせっぱつまってるってわけだ」
廊下のまんなかでふたりしてすわりこみ、彼女たちは顔を見あわせた。それからどちらともなく頬をふくらませ、息をつく。まったく、しっかりしてほしいよね、ジェニー先輩ったら。
「ま、とにかく。無計画でジェニー先輩に喧嘩うるのは自殺行為だってことがよくわかった。もう二度とやんない」
「とかいって、余計な世話焼きの翔子ちゃんだからねー」
「うるさい」
ふたりはゆっくり腰をあげる。それから時計を確認して、あわててかけだした。もう部活の時間だ、いつリンがもどってきてもいいように、翔子とアスタは彼女たちの場所へといそいでいく。