その日は、最低最悪の一日だった。けれどジェニーには、きたるべきときがきたのだとしか思えなかった。父のことばはいつも彼女を狼狽させ、辟易させ、のどをつまらせる。ジェニー、と彼のひくい声がだれかのなまえをよぶたびに、彼女の根底がぐらぐらゆれる。

「仲のよい後輩ができたようだな」

 いそがしい父が間隙をぬうように話をするとき、ジェニーはきまって肺のおくのあたりにいやな感じを覚えるのだった。朝、ちょうど家をでようとしていたところだった。時間には余裕をもって行動しているから、多少のひきとめは問題にならない。ただし、支障をきたす部分は多々ある。

(耳のはやいこと)

 おはようございますお父様、と、はっきりした声を朝のあいさつを省略した父への返事にかえた。彼はとくに表情をかえることもなくおはようと言い、しかつめらしいスーツの襟のあたりを無意味になでた。彼にはそういうところがあった。会話のテンポをいちいちずらす。ジェニーは、それになれることのできない自分がはがゆかった。

「ええ、後輩の子にかぎらず、先輩方や同級生の子からもよくしてもらっています」
「そうか」

 ひろい玄関先、天井のたかいそこでは声がよくとおる。ジェニーの父親は、どちらかといえば柔和な目鼻立ちをしていた。けれど、それをおおいかくしてしまうきびしさがあった。ジェニーは、父のやわらかな表情など見たことがない。ジェニー、と彼の声が彼女をよぶ。じっとまえを見ていた。父から目をそらさなかった。

「なかなか、おもしろい人材をかかえているようじゃないか、白凰女学院というのは」

 彼はあごのあたりに手をあてて、一考。いやな予感ばかりが背筋をはいあがる。ゆっくりとうごく唇、ジェニーはとにかく、ただ、まえを見ていた。

「先輩、ひょっとして体調わるいの?」

 ふいをつかれたような形になってしまったのには、あきらかにこちらに原因があった。手にもっていたものがすべりおち、それを救出してくれたのはリンだった。

「どうしたんですか、らしくないな」

 放課後の部室、なんとなくいつもよりはやい時間に顔をだすと、のぞまぬ先客がいた。リンが、きまりわるそうに椅子に腰かけていた。たったふたりきりの時間、ここのところはずいぶんと心地よく感じるようになっていたものだったが、いまの彼女にはあまりにも唐突だった。動揺しきりの彼女は、大丈夫かと心配される始末だった。それは、あってはならないことだった。

(どこにでもそういう輩はいるものだが、……なにものにもつかいようというものがある)

 耳のおくにのこるのは、父のしずかな声だった。今朝の話のつづきだった。ある後輩のことをおもしろいと称した彼は、言外に多分の意味をふくませる。たまらなく気分を害された。ジェニーは、あの父親の口からリンのことが語られるなんてたえられなかった。けれど、ことばをさえぎることもできない。なぜならば、ジェニーにはあの父とおなじ血がながれている、つめたくて赤い血がながれている。

「ねえ、まえから言いたかったんですけど」

 リンが、おこったふうな声をだす、全然彼女らしくないことを言う。どうしてそんなことを言うのかわからない、やめてほしくてしかたがない。
 リンは心配してくれた。この役にたたぬ右目のことを気にかけてくれた。やさしくていい子だった。本当は、ずっとわかっていた。

(利用価値は充分にあるだろう。あえて言うほどのことでもなかろうが、ジェニー、利用することはあっても、まちがっても利用されるような不覚はとるな)

 私はあの子にそんなことはしない、と、言いたかった。私はあなたとはちがうと断言したかった。でも本当にそうなのか。あのとき父から目をそらさなかったのは、それが父のおしえだからだ。おれたくなければ相手の目を見つづけろと言いきかされてきたからだ。なにもかもが父の真似事だ、ジェニーは、きらいな父親そのものだ。無様で無様でしかたがない。
 猫に似ていると思った。気まぐれで身勝手で、そうあることがただしくうつくしい。どこまでも自由で、こちらのことなど気にかけない。あまりに素敵だと思った、魅力的でしかたがなかった。だって、そうであってくれれば、こちらがどんなにひどくみにくい存在でも、むこうに害をおよぼすことはない。

(ひとのこと利用するのが、得意なやつの顔だ)

 いつかのリンのつめたいことば。おろかにも、それに傷つくような真似をしてしまった。そのとおりだというのに、なんて贅沢なのだろう。リンさん、あなたの言うとおりよ、私はきっとそうするの、あなたのことを、いつかきっと。
 それなのに。

「……どうして、そんなことを言うの」

 あやまりたいと言ったのだ。真実をつきつけてくれたのに、あのときのことばをひどいことだったと訂正したいと声をあげる。やさしい女の子が、ジェニーをなぐさめようとしてくれる。あってはならないことだった。もうだめだった。なんとか思いこもうとしていた、彼女は自分のことなど気にかけはしない。ただ、すきなときによってきて、気がかわればすぐにいなくなる。そういう気まぐれな関係ならば、こちらだっていいようにできた、自分のみにくさを遠慮しないでいられた。

「あなた、私が思ってた子とちょっとちがうみたい」

 本当は、ずっとわかっていた。リンはやさしくていい子で、その事実に気づかないふりをしてきた。だって、そんな素敵な子に、このつめたい我が身はつりあわない。
 
12.08.01