その日は、最低最悪の一日だった。その兆しはあったのかもしれない、タイミングがわるかったのかもしれない。けれどなにより重要なのは、それが本当にさけようのないものだったのかということだ。

「あ、先輩」

 放課後。かなりはやめに部室に顔をだした子は、しかし先客を見つける。リンが円卓のうえに愛用のコンピュータをたちあげていて、それからはっとして時計を見た。はやいのね、ジェニーがそう声をかけると、まばたきをしてから曖昧にうなずく。

「あら、もう部活の時間かって顔してるけど」
「……はは」

 きまりがわるそうにほほをかいて、あわてた手つきがコンピュータの電源をおとす。お察しのとおり、リンは午後の授業を自主休講してここにこもっていた。ごまかす手だてはいくらでもあろうが、それがこの先輩につうじるとは思えなかった。しかるべき説教をくらうために彼女は背筋をのばしてすましてみせる。しかしジェニーは、とくになにも言わなかった。

「先輩?」

 ひょうしぬけたリンがよびかけるが、ジェニーはぼうっとしたままこちらを見るばかり。なんだかようすがおかしかったから思わずたちあがってかけよるが、その瞬間に彼女はふっと笑ってリンのわきをとおりすぎた。滑稽なすれちがいは、気づかぬうちにのびていたリンの指先をむずがゆくさせる。
 ジェニーは所定の場所におかれた携帯用の情報端末をいじくって、きょうの部活の予定を確認することに専念していた。とてもへんな感じがした。そこで得心する、あまりにしずかなのだと思った。いつもならばとても自然で耳ざわりのいい声がふたりきりの空間を居心地よくさせてくれるが、いまばかりは話がちがうらしい。寡黙な背中をながめながら、先輩って案外無駄話のおおいひとだったんだなと思った。

「……」

 へんなの、と唇をとがらせた直後に、ひょっとしてと思いつく。リンはまるで反射的にたちあがる。

「先輩、ひょっとして体調わるいの?」

 それはもしかしたら、とても思慮をかいた行動だったのかもしれない。けれども、リンにとってはいつもどおりのやりかただった。すこしまえまでならそうすることはできなかったかもしれない、でもいまならば、こんな気軽なせっしかたは自然になっているはずだった。

「……っ」

 それなのに、左隣からひょいと顔をのぞかれたジェニーはまるでふいをつかれたように息をのむ。しかも、手にもっていた端末をとりこぼす。ぎょっとしたリンは、あわてて腕をのばした。

「……っぶね」

 なんとか床に接触するまえにつかみとることに成功して、息をつく。どうしたんですか、らしくないな。心配している声がジェニーの耳にはいり、唖然とした意識がなんとかさめる。ジェニーはそれでも返事もできず、リンを見かえすばかりだった。

「あの、先輩、大丈夫ですか」
「……、ええ。ありがとう」

 数拍おいてやっと形式ばった声色が礼を言って、彼女はさしだされたものをうけとろうとする。リンにはあきらかにようすがおかしくみえた。彼女は、ジェニーがそれに手をかけても、自分もつかんだままでいた。

「リンさん?」
「全然大丈夫ってふうには見えないです」

 結局端末をとりあげて、もとあった棚のうえにもどす。しかしリンは、それからどうすればいいのかわからない。具合のわるいひとの気づかいかたなんてしらない。大丈夫よ、とかたくなになる彼女の腕を無理やりとって医務室へつれていけばいいのだろうか。思いついて手をのばすが、あまりに自然にさけられてぎくりとした。ゆくえをうしなった指先がまたむずがくゆなり、思わず身をひく。

「ごめんなさい、たぶん、すこしつかれてるのね」
「……うん」

 納得しかねたが、うなずくしかない。ジェニーはきれいな顔で笑って、またありがとうと言った。リンは、それにすこしむっとなる。だっていまの笑いかたは、ごまかそうとしているときのものだった。先輩、とまたよびかけようとした。瞬間、ばさばさと物音。まるでリンから距離をとるように身をひいたジェニーの手があたってしまったのか、こんどは棚のうえにつんであった数冊の本が床にころがっていた。彼女にあるまじき不注意がたてつづく。やはり、ようすがへんだ。その原因は、リンにはたったのひとつしか思いあたれない。

「ねえ、まえから言いたかったんですけど」
「なあに?」

 こともなげにそれをひろいあげようとしている彼女を手つだいながら、リンはおこった声をだす。こういうのは先輩の専売特許のはずなんだけど。そういうことを思いながら、右目のことです、と説教じみた口調をつくる。それに夢中になっていたものだから、リンはジェニーの手がたったの一瞬だけとまったことに気づけない。

「やっぱりちゃんとしたほうがいいよ。だれにも言ってないって言ってたけど、やっぱり家のひととかにも相談して……」
「どうしてそんなことを言うの?」

 だから、リンにとってはそのひくい声はあまりに唐突だった。完全にふいをつかれたようにことばをうしない、それを発したのがジェニーだと気づくのにしばらくかかった。最後の一冊をもとの場所にもどしおえた彼女は、しゃがみこんだままのリンをおいてとんとんあるいていって、先程までリンが座っていた席のとなりに腰をおろした。

「どうしてって。あたしは、先輩が心配で」
「やめて」

 おどろくほど、するどい声だった。リンはびくりと肩をゆらす。正直な話、動揺した。こんな剣呑さを見せるジェニーは、リンのしる彼女ではない。

「……私のことはかまわないでいいのよ、それはあなたが気にすることではないの」

 それは、ジェニーの常套句だった。気にするな大丈夫だというのが彼女の常だ。それなのに、こんなにいやな気持ちになってしまうのはなぜなのだろう。全然べつのことばにきこえてしまうのはなぜなのだろう。いまここにあるのは、気づかいを遠慮するやさしさではなく、単純な拒絶だった。
 おろかしいことだ、本当は、心配してくれてありがとうだとか、そういうあまい台詞を期待していた。

「……なんだよ」

 こどもみたいなすねた声がでてしまった。ジェニーはすずしげな顔で微笑んでいた。急に、不安になる。だってそれは、こんなふうにふたりですごすことがおおくなる以前の彼女に見えた。先輩。思わずよびかけるが、ジェニーはなにと簡素な返事をするばかり。リンは、なさけなくうつむくしかない。

「……なんで、おこるんだよ」
「べつにおこってなんかないわ」
「そんなの嘘だよ、だって……」

 だって、なんだというのだろう。彼女がつめたかったとして、それでは、彼女にたいする自分の姿勢はいかがなものなのか。ひどいことを言って、生意気で挑発的な態度ばかりをとってきた。それをうやむやにしたまま、なにもなかったような顔で微笑むジェニーにあまえてきた。そうだ、いままでこそが妙だったのだ。彼女のやさしさはただの気まぐれで、それがおわってしまうのは、きっと自分がいたらないから。無自覚に混乱するリンは、冷静な判断ができていない。

「あ、あたしだって、ちゃんと、あやまろうと思ってたんだ」

 ごくりとつばをのみこんで、スカートのはしをこころもとなくきゅっとにぎる。脈絡のない台詞、リンさん?と冷静な声がたずねてくる。それすらも彼女の動揺に拍車をかけて、むこうのようすをうかがうような器用なまねすらもできない。

「……どうしたの、急になにを言ってるの」
「先輩に、ひどいこと言ったから、ひとのこと利用するのが得意だって、そんな、ひどいこと」
「まって……おちついて、おねがい」
「でも、そうじゃなかった、そうじゃないってわかったのに、あたし」
「やめてよ!」

 がたん、という物騒な音、そしてジェニーらしからぬ乱暴な声に、リンの必死の主張はさえぎられることとなる。呆然とまえを見れば、ジェニーがたちあがっていた。彼女の背後に椅子がころがって、机につかれた両手はぎゅっと痛々しくにぎられている。

「……どうして、そんなことを言うの」

 ふっと視線をあげた彼女は、つかれきった顔をしていた。まるでなにかをせめるような目をしていた。リンには、その対象が自分であるとしか思えない。金縛りにあったかのように身動きをとれず、ゆっくりと近づいてくるジェニーからにげることもできない。ほぼおなじ高さの目線、それが至近までよって、ふわりとした指先がリンのほほをなぞった。やわらかな接触は彼女の目を見開かせ、赤面することを余儀なくする。ゆっくりとうごく目前の唇、やわらかそうなそれは、リンをぎゅっとひきつける。それだというのに、そこからつむがれたことばといえば、あまりにも残酷で不気味で身勝手なのだった。あなた、私の思ってた子とちょっとちがうみたい。

「……っ」

 無意識のまま手がでる。ジェニーをちからいっぱいつきとばしたはずのリンは、肩で息をしながら自分こそあとずさる。それがあまりになさけなくて、ぎっと歯をくいしばってからもういちど目のまえのひとをおしやった。すがりつくようにだいじなだいじなコンピュータをつかみとり、がむしゃらにそれを胸にかかえてにげだした。

「わっ」

 ドアが乱暴にひらかれる音、そしてこの場にそぐわぬどこかまのぬけた声。背中でそれをきいていたジェニーは、はっとする。

「……ジェニー?」

 そしてつぎに耳にとどくのは、友人からのちいさなよびかけだった。ふりむく気になれなかった彼女は、すぐにでもその場にへたりこみそうになるからだをなんとかささえる。

「ねえ、大丈夫? いま、あの子……」
「やめて」

 フローラの気づかう声をぶしつけにさえぎり、ジェニーは前髪をくしゃりとにぎる。いま、あの子がどんな顔をしていたのかなんてしりたくないわ。彼女らしからぬ身勝手な主張が部室のなかにわだかまり、とにかくいやな気分が背筋をつたう。ふってきた沈黙、それがどれほどつづいたかもわからぬまま、ふうとフローラが息をついたところで、ジェニーはやっと顔をあげた。

「めずらしいわね、あなたがそんなふうに声をあらげるなんて。さっきなんか廊下まできこえてたわよ」
「……」
「あ、言っておくけど、内容まではわからなかったから。誓って」

 胸のあたりで手をあげて律儀にあわてる彼女を見て、こんどはジェニーが息をつく。

「べつに、たいしたことじゃないから。それにかりにきかれてしまったとして、それはこんなところでおおきな声をだした私がわるいだけの話だわ」

 冷静ぶった声が言って、たおれている椅子に手をかける。丁寧にもとの位置にもどして、フローラは、そのようすをながめている。ねえ、と、そのつぎにそんな声がとんでくるのは、至極当然のことだろう。

「あの子がどんな顔をしていたかしりたくないって言ったけど、じゃあ、いま自分がどんな顔してるかは?」

 まわりくどい言い回しは、あまりフローラらしくない。ジェニーはこたえない。ただたちつくすばかりの彼女は、いったいなにを考えているのかわからない。

「ねえジェニー、あなた大丈夫?」
「大丈夫よ、もしなにかあったとしても、それは私の問題だから気にしないで」
「だったら」

 すこしおおきな声、ジェニーの視線がふとあがる。それを確認してから、フローラはゆっくりとことばを発する。あなたの問題だって言いきるんだったら、それにだれかをまきこんで傷つけるようなことはやめなさいよ。さとすようなひびきは、しかし明確にジェニーをとがめていた。ぴくりと指先がふるえて、血の気のひく音が耳のうらにこだまする。彼女は、唐突にのどがかわいていることを自覚した。

「……すこし、顔をあらってくるわ」
「そうね、それがいいと思う。副部長にそんな顔で部活にでられちゃ、こまるもの」

 こんなときでも凛とした足どりで、ジェニーはフローラのとなりをよこぎっていく。そのとき一瞬だけあった目は、とてもまっすぐだった。

「フローラ」

 部屋をでる間際、彼女からのよびかけ。それにつづくのは、ありがとう、なんてこころのこもったことばだった。ぱたん、と背後で扉のしまる音、それをきいてから、フローラはふっとつまりきりだった息をはきだす。

「……まったく」

 ここのところたしかにようすがおかしいとは思っていた、その原因にもなんとなくこころあたりがあった。しかしそれは、きっといいことにちがいないと思っていた。ゆっくりと、なにかがかわっていっている気がしていた。それがまさか、こんなことになるなんて。

「さすがに、予想外って感じね」
「……!」

 唐突すぎる第三者の声は、フローラの肩をこれでもかととびあがらせた。あわててふりむけば、わざとらしい思案顔をするタルヴィッキとミレーネ。驚愕した。

「ちょ、あんたたち、どっから、いつから」
「ふつうに入り口からはいってきたわよ?」
「廊下でちょーっと盗み聞きはしちゃったけどね。ジェニーにはばれなくてよかったねー」
「ねー」

 のんきに顔を見あわせるふたり、フローラは唖然として、それからなんとかまったくあんたたちは、と説教でもしようかと腕をふりあげ声をはる。しかし、その勢いはすぐにしぼんでいく。そのようすを、わかっていたとばかりにながめる彼女たち。

「……ジェニーに、ひどいこと言っちゃった。つらそうな顔してたのに」

 だって、と言いわけみたいな思考。だって、彼女はいつも言うのだった。私の問題だと、たったそれだけで片づけてしまうのだった。それがもどかしくてくやしかった。たよればいいのに、そうしてくれていいのに。ともだちなんだから、ひとりでかかえこむのなんてやめて、ちゃんと話をしてほしい。

「あんなの、やつあたりみたい」

 すっかり意気消沈したフローラは、その場にしゃがみこんでしまった。あとのふたりも、それをおいかけるように腰をおとす。あたし、フローラって絶対心労がたたってしんじゃうんだろうなって思う、そう言ったのはタルヴィッキで、ぽんぽん頭をなでてやったのはミレーネ。

「そんなの、あんなときにやさしいこと言ったら、それこそジェニーはたちなおれないでしょう」
「フローラはわかっててしかってあげたんでしょ。まったく真似できそうにないな、そのおひとよしっぷりは」
「……」

 あんたらは、なんでこんなときばっかりやさしいのよお。いまにもなきそうに文句を言うフローラを、タルヴィッキとミレーネは、指でつついて笑いとばした。
 
12.07.28