物事はふかく考えないほうだった。それは元来の性格というよりは、自己防衛めいた習慣だった。大谷吉継はじっと足元を見おろす。校舎裏の薄暗いそこは、しかし一角だけちょうど日あたりがよくなっていた。せまい範囲に雑草がはえていて、彼女はここで無心のままあるさがしものをするのがすきだった。
 しかし、少女のそんな安寧は突如としておわりをつげる。このしみったれた場所は吉継だけのもので、だれもちかよったりしない憩いの場のはずだった。それだというのに。……昼休みを思い思いにすごす生徒たちの喧噪すらとどかぬそこに、やたらと自己主張のはげしい足音をたて、かのひとはあらわれたのだった。
 一週間ほどまえに、二年のとあるクラスに転校生がきたという話はきいていた。うわさ話にうとい吉継が、しかも他学年のそんな事情をしっているのはめずらしいことだったが、つまりは彼女はそれほどに有名人なのだった。二学期もなかばをすぎたような半端な時期にやってきた新顔、転校初日に、乱闘めいたさわぎをおこした問題児。

「ちっ」

 吉継の安息の地に遠慮なくあがりこんだ彼女は、不機嫌きわまりない顔つきで舌うちをしてみせたのだった。
 もうずいぶんと時がながれた。なんのことかといえば、つたえきいたところによるとなまえは伊東一刀斎というらしい例の転校生と、昼休みをともにすごすようになってからの話だった。とはいえこれには多大なる語弊がある。吉継は、いちどだってこの隣人と口をきいていないのだ。それどころか、目すらあわせたことがない。はじめて一刀斎があらわれたとき、彼女はするどい目つきで背後を肩ごしにらみつけながら、気分がわるそうに口元をゆがめていた。その気配だけで完全に萎縮していた吉継は、むこうがまえにむきなおるよりさきにあげていた視線をもどした。それから、彼女がいったいどんな顔をしてなにを思ったのかは見当もつかない。ごそごそと物音がしたあと、吉継のななめうしろのほうはしずかになった。とにかく息がつまっていた彼女はおそるおそるとふりかえり、そこで校舎の壁に背をあずけて目をとじている来訪者を見つけた、というわけだった。

(ひょっとしたら、わたしがいることにすら気づいていないのかも)

 つぎの日もまたつぎの日も、一刀斎は昼寝をしにここにあらわれた。吉継が定位置にしゃがみこんで目下をじっとながめはじめたころに、きまって彼女はやってきた。とくに話しかけられるわけでもない、邪魔くさがられるわけでもない。腕を頭のうしろでくんで枕がわりにして、一刀斎はかたい壁によりかかってただ目をとじていた。居心地がわるそうにゆがんだ口元、寝にくそうだなあと思う。けれど、クッションでももってきてみてはどうですか、などと提案できるはずもない。吉継は、彼女があらわれるとそれだけで緊張してしまうのだ。むこうがこちらをいかに相手にすらしていなくても、吉継には気になってしかたがないのだ。まえの学校は暴力沙汰で退学になったのだとか少年院あがりだとかまことしやかにささやかれるような人物、そんなやつがこんなにちかくにいる、にげだしたいと思いこそすれ、話しかけようなどとはまちがっても思えない。それでも毎日ここに足をはこぶのは、おおきな矛盾に感じられた。

(だって)

 おどろくべき話だ。気のよわい自分にも意固地になれることがあったらしい。ここは、わたしの場所だもの。吉継はそんな勝手なことを考えている己が意外だった、そして、ここがこんなにも大事なものになっていたことも。いったいなにが大事なのだろう、ひとりになれるから、なにも考えず、さがしものができるから?

「なあ」

 唐突に、頭のうえから声。吉継はひっとまぬけな声をあげてしまった。そしておそるおそると顔をあげると、舌うち以外の声をきいたことない人物がこちらをのぞきこんでいる。

「なにしてるんだ?」
「え、あ、え……」

 思いがけぬむこうからの接触に、完全に混乱していた。目を白黒させた吉継は、とにかく答えに臆していた。一刀斎は返事をまっている。こちらのことなど気にもとめていない彼女が、おとなしくこちらをうかがっている。予想外の展開は彼女をよけいに動転させるばかりだった。結局しびれをきらしたらしい一刀斎は、ふたたびおいと声をかける。

「ひょっとして、私は邪魔か?」
「え……」

 全然ことばがでてこなくてあせった。なぜだか心臓がどきどきなって、息がつまった。邪魔なのはこちらではないのだろうか、きっと気にいったのであろうこの場所をゆずろうとしない、この貧弱そうなやつなのではないのだろうか。吉継は無意識にくっと息をすい、唇をうごかす。
 瞬間、予鈴がなった。

「……」

 出端をくじかれた少女は口をあけたままだまるしかなかった。それからつかのま返答をまっていた一刀斎も、あきてしまったのかすっと身をはなす。それからまったく潔いうしろすがたでもって、さっていった。しばらくぼんやりとしてしまっていた吉継は、午後の授業に遅刻しそうになってしまった。

(邪魔じゃないって言えなかった)

 つぎの日、だいすきなところへむかう足がなぜだか重い。だって、もう彼女はいないにちがいない。話しかけても返事もできない無礼なやつがいる場所になんてくるはずがない。けれど、それのなにがいけないのだろう。もとにもどるだけだ、いままでの、やすらかな時間がもどってくるだけの話だ。
 ぴたり、と吉継の足がとまる。はたしてそれは事実だろうか。一刀斎のいるあいだは、しずかではなかっただろうか。彼女は、あることにいまになって気づいた。そうだ、彼女は、全然邪魔なんかじゃなかった、むしろ。
 気づいたらかけだしていた。物事はふかく考えないようにしてきた、すぐにいやなことばかり思いつくから。彼女がやってきた最初のころもそうだった。頭をからっぽにして没頭できる時間にわってはいってきたこわいひとが、そのうち自分をおいだしにかかるんじゃないか、なにかひどいことをされるんじゃないか。そんな被害妄想ばかりしてしまっていた。けれど、現実はどうだろう。おいだしたがっていたのはこちらだし、せっかく声をかけてくれたのに返事もかえせないひどいやつは自分自身だった。本当は、いつのまにか、彼女がくるのがすこしだけうれしかったのだ。なにも考えずにさがしものをしているんじゃない、彼女のことばかりを思って、なにかをさがしていた。

(四葉のクローバーが見つかったら、ずっとこのひとがここにきてくれますように)

 でも結局、見つけられなかったの。いままでどおり、全然、しあわせなんて見つけられない。ばかみたい、と、あがる息のあいまにことばがこぼれた。
 その場所はあいかわらず薄暗くてしずかだった。すこしまえまでと欠片もかわらない雰囲気。けれどもひとつだけ、おおきな変化があった。

「おい、わかったぞ、おまえがなにしてたのか」

 吉継のいつもの定位置にだれかがいた。得意げに唇のはしをもちあげた一刀斎が、足元を指さしていた。

「……」

 またなにも言えないまま、吉継はたちつくしていた。きた、きょうも、きてくれた。そんなうれしい気持ちばかりが胸のなかをくるくるまわっていては、ことばなんかがでてくる余裕なんてない。それにじれたらしい一刀斎がたちあがる。それからてくてくよってきて、ぐいと手をさしだした。その指先につままれているのは、ちいさなちいさな四つの葉。

「四葉のクローバーってんだろ。なんだったかな、たしか、しあわせになれるってやつ」
「……ねがいごとが、かなうんです」
「へえ」

 自分の目線のたかさまでそれをもちあげて、指でくるくるまわしながら観察する。急にはずかしくなる。思えば、こどもみたいな願かけだ。そんなのを毎日必死にやっているのをさんざん見られてきたのだ。ばかにされるかもしれない。この期におよんでまだうしろむきな吉継はうつむいてしまって、だから一刀斎がつぎにいったいなにを言いだしたのか一瞬かわらなかった。

「やる、これ」
「え……」
「さがしてたんだろ」

 先程とおなじくまるでおしつけるようにさしだされたそれ、ねがいごとすれば、とこともなげに言いはなった彼女は、ばかにするどころかずいぶんと得意げなのだ。にっと笑って眉をもちあげたその顔は、なんだかかわいらしい。

「……でも、それは先輩の見つけたものだし」
「あれ、私自分が先輩だなんて言ったっけ?」
「え…だって、最近きた転校生って二年のひとだけだから」
「え、なんで転校生だってわかったんだ?」
「だ、だって、制服ちがうし……」
「……おお」

 言われてみれば、とそこでやっと自分の格好に気づいたらしい一刀斎は、自分の姿を見おろして得心した。その顔があんまり無邪気だったので、吉継は思わず笑ってしまった。すると、むこうはまばたきをして、こちらを見おろす。しまった、無礼なことをしてしまった。おこらせたかと思い身をかたくしていると、一刀斎のほうもふうんと鼻をならしてすこし笑う。どうして笑われたのかわからなくて、すこしはずかしくなる。なんだか思っていたひとと全然ちがうなあと思った。

「そんなことより、これ」

 いままで私のことここからおいださなかった礼だ。そんな殊勝なことを言うこわいはずのひと、吉継は思わずうけとって、手のなかにおさまったちいさな四葉を見おろす。

「なあ、私が先輩ってことは、おまえは一年なのか?」
「あ…はい。一年です」
「なまえは?」
「お、大谷吉継」
「ふうん。なあ、どんなねがいごとするんだ?」
「え……」

 思わず赤面した。だって、かつては漠然としていたねがいごとは、ここ最近で実に明確なものに変化していたのだ。しかし、それをおしえることなどできようか。

「あの、えっと、四葉のクローバーのおねがいは、見つけたことをだれにもおしえないで、自分だけでねがわないとだめなんです」

 あわてて言いわけめいたことばでごまかそうとするが、それはとんだ失言だった。一刀斎はまばたきする。それじゃあ、私が見つけたやつをあげても意味ないな。余計なお世話だったみたいだ。それからそんなことを言ってせっかくのおくりものをとりあげられそうになってあせった。反射的に手をひっこめると、またぱちぱちまばたき。

「それじゃだめなんだろ?」
「……あの、でも、……ください」

 うわあ、ばかだ、なに言ってるんだろう。吉継はかっかと顔が赤くなることを自覚したが、一刀斎はまったく意にもかいさない。というか、気づいてすらいない。ああそうか、と彼女は思った。このひとはすごいひとなんだ。みんなへんなうわさをするのは、目立つひとだからなんだ。ずいぶん乱暴な結論だったが、じつに腑におちた。自分がまわりとちがう制服をきて、ひそひそとあることないことささやかれても気にもとめない。自分の異端さをたいした問題にしない、堂々とした先輩。そのくせ、気の弱そうな後輩にはお礼なんてしてくれる。

「先輩」
「なに?」

 こうやって、話もちゃんときいてくれる。まっすぐな瞳が、色のない透明な視線が吉継を見おろす。うわさをきいては勝手な印象をいだいていたこちらのおろかさがうきぼりになる気がしたが、そんなことよりもっと見かえしたいと思った。わたしも、先輩にお礼がしたいです、わたし、先輩のこと考えているときは、いやなことを考えないですむみたいなんです。

「……わたしが、四葉のクローバー見つけたら、こんどは先輩にあげます」
「へえ。……あれ、でも、それじゃあまたねがいごとはかなわないんじゃないか」
「えっと……」

 そのねがいごとは、自分の力でかなえようと思うから、などとは言えるはずもない。もじもじしているうちに、なんだかちぐはぐだけどおもしろいからいいか、と一刀斎はひとりで納得する。吉継はほっとして、けれどそれ以上にこくりとつばをのんで決心する。

「先輩、だから、わたしが見つけるまで、ずっとここに……」

 きてください。そう、言おうと思った。けれど、彼女はずいぶんとタイミングというものと仲がわるいらしい。それをさえぎるように、だれかの声がひびく。

「こんなところにいたのね」

 しずかでいて凛とした、よくとおる声だった。びくり、と吉継は肩をゆらして、反射的に一刀斎の顔を見あげる。すると彼女が、ここにはじめてきたときとおなじように不機嫌そうにまゆをひそめていたので、とても、いやな予感をおぼえた。

「勝手にどこにでもいかないでと言ってるでしょう。なにかしでかされでもしたら、私が先生に小言を言われるんです」
「ちっ」

 あからさまな舌うちをして、一刀斎はふりかえる。それにつられて吉継の視線もすべっていく。ととのった顔をしかめた、小柄なひと。きれいなひとだと思ったのと同時くらいに彼女と目があった。ぎくりとしていると、そのひとはまた一刀斎へと視線をむける。それが非難の色をしていたので、吉継の顔から血の気がひいた。

「その子、一年生? なにをしてたんです?」

 うそ、と思った。やめてほしいと思った。なにもされていない、このひとをそんな色眼鏡ごしに見るのはよしてほしかった。吉継はあわててなにか言おうとしたが、のとがつまるばかりでもどかしい。なんとか一歩ふみだすが、おい、とひくい声に制止される。

「こいつは偏屈で意地がわるいから、なにを言っても無駄だ」
「あなたね……」

 盾にでもなるように吉継をぐいっとうしろにおしやって、一刀斎はそのひとのほうへと歩きだす。あ、と声がでたが、それはだれにもきこえない。

「じゃあな、いままで邪魔した。私はもうこないから安心しろ」

 やはり、彼女の背中は潔いのだった。まだなにか言いたげなきれいなひとの腕をつかんでさっさとどこかへいこうとする。むしろなごりおしそうな第三者が吉継を見、しかしその視線はすぐに一刀斎へとむきなおる。いたいです、おまえはうるさい、うるさいのはあなたのせいよ、あの先公のご機嫌とりのためだろ、あなたね! 徐々にとおざかる言いあいは、吉継をどこまでも唖然とさせた。それからしばらくして予鈴がなったが、彼女はそこからうごく気にはなれなかった。

(本当に、こないんだ)

 翌日。なけなしの期待にひかれるままに足をうごかしたが、いつもの場所にはまてども一刀斎はあらわれないのだった。あのひとはだれだったのだろう、どうしてあんなひどいことを言うのだろう。吉継は、とてもしずかな校舎裏でちいさくなる。手のなかの四葉が、なんだかしぼんで見える。おかしな話だ、だいすきだったここが、どこまでもかなしくて無意味な場所に見える。やっぱり、なにも考えてはだめだったのかもしれない。彼女のことを考えるとあんなにたのしかったのはやっぱりただの幻想で、いまはもうつらいばかり。いままでどおり、ただ無心にさがしていればよかった、なにも考えないままでいれば、こんなかなしい気持ちにならなかったにちがいない。

「……ばかみたい」
「私がか?」

 泣くかと思った、その瞬間。二度あることは三度あるとばかりに、邪魔がはいる。けれどこんどのそれは、とてもいいタイミングの出端のくじき方だった。吉継は、反射的に顔をあげる。そして、見つける。

「……先輩」
「おまえにまでばかと言われると、本当にそんな気がしてくる」

 こともなげな顔つきで適当なことを言い、一刀斎はてくてくあるいていつものところに腰をおろす。それからまた腕を枕にして目をとじる。

「……ばかは、先輩のことじゃないです」
「ふうん、じゃあ義輝……きのうのやつのことか? まあ、たしかにあつはばかだけどな」

 あいつは私の目付役なんだ、私はばからしいから、なにをしでかすのかわからないらしい。見はっておかないと面倒なことになるそうだ。どうでもよさそうな説明のあと、やっぱり寝にくいな、これ、とぶつぶつ言いながら、一刀斎はたちあがる。四葉は見つかったか。それから混乱するこちらのことなど気にもとめないで、いっしょに足元をのぞきこむ。

「み、見つからないです」
「私はきのう簡単に見つけられたけどな。おまえ、さがすの下手なんだな」
「……見つからない、けど。見つかりました」
「なんだそれ」

 吉継は、ちょっとだけ泣いていた。けれどやっぱり一刀斎は全然気づかなくて、おまえけっこうおもしろいこというよな、と笑っていた。あいつ、しばらく昼休みは委員会の集まりがあって私を見はっていられないらしい。校舎裏でもどこへでもいけと言われたんだけど、そうなんだ、どうもここくらいしかいくあてがなくて。

「おまえの邪魔だろうし、ずっと昼寝のしにくい場所だと思ってたんだけど、なんでだろうな」

 邪魔じゃない、邪魔じゃないです。そう言いたいのにいま口をあけては嗚咽しかでないであろう吉継は、せめて、こんど一刀斎のためにクッションをもってきてあげようと決心した。

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「すっかり悪役だと思いませんか、私」

 人気のない廊下、つめたい空気のなかで、ひとりの生徒が窓からしたのほうをながめている。出席簿をもったとなりにたつ教師は、そんな彼女をぼんやり見ている。ふうとため息をつく少女は、なんだかもうしわけない気持ちになりながら、なかむつまじいようすのとある先輩と後輩の逢瀬を観察していた。

「それはまた、おあつらえむきね」

 あははと遠慮なく笑う柳生石舟斎先生は、出席簿でとんとんと肩をたたいた。……冗談だからそうにらむな。それからあいかわらずのにやけた顔で、全然その気のない声で、不機嫌そうな生徒をなだめた。

「そんなことより、委員会にはいかなくていいのかしら?」
「……先生ってどうしてそんなに地獄耳なんです?」

 そんなのないことくらい、ご存知でしょう。からかわれた彼女は唇をとがらせて、ぎっと石舟斎をにらみつけた。ふたりのあいだにはふたり分ほどのすきまがあった。

「ところで、どうしてそんなにはなれてるんです?」
「あなた、暴力的だもの。間合いとっとかないと」
「私のどこが……」

 反論しかけて、冷静さにかけている己に気づいて彼女はぐっとおしだまる。足利義輝というこの生徒はクールですきがないと評判だったが、この教師のまえではどうにもうまくいかなかった。このところはその色あいが濃い。もともとつかみどころのない教師だったが、最近はさらになにをかんがえているのかわからない。

「どうして、一刀斎を剣道部に入部させたんですか? 彼女はいやだと言ったんでしょう?」
「そうだっけね」
「まじめにきいてください」
「……」

 まじめね、ぼそりとつぶやき、石舟斎はまたとんとんと出席簿で肩をたたく。

「あなたは、本当にまじめよね、彼女の監視役がいやならいやだと言っていいのに」
「……先生がやれとおっしゃったんでしょう。それより、質問にこたえて」
「あいつ、おもしろいわよね。あなたとおなじくらいおもしろい」

 義輝は舌うちでもしてやりたい気分になった。こういうときのこの教師は、スマートな解答など見せる気がない。意地のわるいひっかけめいた例題ばかりを提示して、公式の存在しない問題をちらつかせ、義輝独自の解を見せてみろとにやけるのだ。

「先生の話ってまわりくどくていやになります」
「そ? 授業は簡潔でわかりやすいって評判なんだけど」
「……」

 いよいよむっとした義輝は、足音をあらげて教師にあゆみより、ぽかぽかとわきばらのあたりをなぐりつけた。ほら暴力的だ、と石舟斎は思ったが、これ以上機嫌をそこねるのはまずい。ぽん、と親愛の意をこめて、出席簿で頭のなでてやることにする。

「まあまあ、期待してますから、部長さん」

 義輝はまったく納得していない顔ではあったが、とりあえずはおとなしくなる。それからなぜだかうつむいて、先生、とちいさな声でよびかける。それからやたらとおぼつかない指先で、石舟斎のそでをにぎる。

「なに?」
「……こんどまた、先生の車の助手席にのせてください」
「え、べつにいいけど。そんなにあの芳香剤のにおい気にいったの? こないだえらい感動してたもんね、あんなのどこにでも売ってる安物なんだけど、……!」

 ばきん! 石舟斎のわきばらのあたりがいい音をたてる。義輝の本気の正拳がめりこんでいた、けっこうかたいはずの出席簿に。っぶねー、と息をついた石舟斎は、あとコンマ一秒おくれたならば自分のはらにめりこんでいたであろうその力強い拳を見おろして冷や汗をかいた。

「こら、剣道部ならせめて竹刀をつかいなさい、いやそれはそれでやばいけど……」
「ばか!」

 しかも、おこるべきは暴力をふるわれたこちらであるはずが、ずいぶんおおきな声で罵倒されてしまったのでおどろいた。おどろいているうちにもういちどばかと言った義輝が、ぷいとむこうをむいて走りだす。

「こら、教師にその口のきき方は……あと、廊下は走らなーい」

 おそらくとどかぬであろう小言を言うが、いまいち釈然としない石舟斎は、しばらくのあいだぼんやりしてしまった。それからはっと我にかえり、きまりがわるそうにほほをかく。

(……本気のおこりどころがいまいちわからん)

 てか、これどうしよう。べっこりへこんだ出席簿を一瞥し、彼女はいろんな気持ちのこもったため息をついた。

12.11.12