長机がふたつくっつけられただけの洒落っ気のない卓上に、ふわふわのラッピングをとかれた焼き菓子がのっている。その両わきには湯気をたたせたティーカップがならんでいて、緊張気味の女生徒がそろそろと自分のまえにおかれたそれに手をかける。彼女好みの量の砂糖がもうとかしてある紅茶にそっと口をつけ、しかしその瞳は目下のところとなりに腰かけている女性のようすをうかがうことに必死だった。カーテンのひかれた室内はすこしせまく感じられ、窓のそとからわずかにとどく喧噪はここのしずけさを強調するばかり。

「ん、おいしい」

 その静寂をうちやぶったのは、少女のまちのぞんだ台詞だった。手作りのクッキーをかじるさまを上目づかいでうかがっていた彼女はぱっと顔をあげ、うれしそうに目をかがやかせた。

「本当ですか?」
「もちろんよ、あなたのつくったものでおいしくないものなんてあるわけないもの」

 おおげさなほどのほめことばに、女生徒のほほがそまる。それからあなたもたべてごらんなさいとうながされたので、自分もまるいクッキーを一枚つまむ。味見なんてすでにさんざんしてあるが、やっぱりまだ不安なのだ。さくりと音をたてるそれ、おいしい、はず。だって先生がそう言ってくれた。

「ね?」
「……はい、たぶん」
「……」

 少々おぼつかなくうなずく少女を、クッキーをほめたひとが目をほそめて見つめる。ふいとのばされる指先、ね、もうひとくちいただいていい?

「はい、もちろん……」

 少女が質問にこたえるのとほぼ同時に、その手はいただかれるはずのクッキーではないものにふれた。どきんとしているうちに、手がひかれる。気づけばとなりのひとは先程クッキーをつまんだ少女の指先をたべてしまおうとしていた。
 瞬間、背後のドアががらりとひらかれる音。

「失礼します、武田先生いらっしゃいますか、……」

 そして、入り口のまえに立てられた目隠しのためのカーテンから人影があらわれるのと、女生徒が手をひくのは同時だった。失礼、面会中でしたか。それから唐突の訪問者はしれっとした顔でそう言って、あわててたちあがる子を一瞥した。

「あ、や、あの。大丈夫です、わたしはもういきます」
「あらそうなの?」
「えっと、のこりも先生がたべてください」

 よかったら、柳生先生も。あわてて足元においていた鞄をつかんで、ふたりの時間にわってはいってきた邪魔者にぺこりと会釈をして彼女はぱたぱたと走っていく。そのようすをぼんやりとながめていたのこりのふたりは、ちょうどいいタイミングでおたがいを見て目をあわせた。

「柳生せんせ、この部屋にはいるときはノックしてくれなくちゃやですよ」
「それはそれは、失礼しましたね」

 石舟斎は、にこりとした顔でクッキーのくずがついた自分の指先をぺろりとなめるこの部屋の主にむかって肩をすくめた。なにかご用ですか? それでも彼女はなにごともなかったかのように机のうえをかたづけはじめたので、こんどこそわかりやすくため息をついてみせた。
 校舎のはしのほうにあるこの一室は、相談室と冠されていた。週に二度、月曜日と木曜日にやってくるスクールカウンセラーの武田信玄先生がなやめる生徒たちの話をきいてやるための個室だった。生徒のデリケートな部分にふれることに配慮された目隠し用のカーテンをてのひらでぱたぱたはたいて、石舟斎は露骨にけわしい顔をした。

「あのね武田先生。生徒に妙なことするのはまったくもって感心できないんですが」
「なんのことです? そもそも私もいまの子も女同士ですわ」
「いまどき性別なんて関係ないと思いますが」
「あら、それって先生の経験にもとづいた意見?」
「ただの一般論」
「まあまあ、おかけになったら?」

 ここにきたからには、なにか相談事があるんでしょ? 生徒はもちろん、先生方のお話をきくのも私の仕事です。こともなくそう言って席につきなおす信玄をしばらくながめ、一考したのち石舟斎は先程まで女生徒がすわっていたまるい椅子に腰かけた。ちなみに信玄はさっきとはちがう場所にすわったので、ふたりはテーブルをはさんでむかいあうかたちになっていた。

「相談、そうですねえ、どこのだれとは言わないんですが、相談しにきた生徒に手をだすカウンセラーの先生がいるともっぱらの噂でして、いったいどうしたものかと頭を悩ませているんです。いい解決策はないですか?」
「証拠つかんでクビにしちゃえばいいんじゃないかしら」
「……」

 そうそう尻尾をつかませる気はないということらしい。石舟斎はとんとほおづえをつき、あきれた顔をしてみせる。

「先生、噂ってのはあなどれないものでね、うそかまことかはあんまり関係なくなっちゃう場合もあるんです」

 もちろん、先程言ったことはたんなる売り言葉ではない。そういうひそかな話をこのむ年頃の生徒たちにかこまれていれば、ききずてならぬあれこれが耳にはいってくることはまれではないのだ。彼女が顧問をしている剣道部が活動している剣道場への道すがら、この相談室にはいっていくひとりの女生徒を見かけた。なんとなくいやな予感をおぼえた石舟斎は、道場に顔をだしたあとにそれにひきずられるままここへともどってきたわけだった。まったく、と彼女は息をつく。決定的なミスをおかさずとも、日々のつみかさねが身をほろぼすということはいくらでもありえる話だとは思うまいか。

「手作りクッキーなんてもってきてくれるいたいけで純情な女生徒をもてあそぶなんて、まったくなげかわしいですね」
「あらま、先生ったらけっこうかわいらしいことをおっしゃるのね。おひとつどう?」

 すすめられ、生徒の言いのこしたことばを思いだし、石舟斎は釈然としないままそれに手をのばした。すると、ひとくちたべただけでくちのなかにひろがるほどよいあまさに思わす顔がほころぶ。そんな彼女を見とどけたところで、信玄がそもそもねとつぶやいた。

「そもそも、私はただの毒味役ですから。ご心配なく」
「毒味って……」
「あら、べつにけちをつけているわけじゃないんですよ。むしろ女の子は本命以外にはそういう態度であるべきだと思いますもの」

 あの子、きっといまごろ丹精こめてやいた手作りクッキーをかかえて本命さんのところへといそいでいるのよ。すっと目をほそめ、もうそこにはいない少女をおいかけるように視線をすべらせる。石舟斎はちゃっかりと二枚目に手をのばしながらそれを見つめた。

「つまりは、本命どころかだれにでもいい顔をする武田先生は女の子失格であると」
「もう女の子なんてとしじゃありませんものー。そういう柳生先生は本命にもきびしそうですわね」
「私は基本的に他人にはきびしいんです」
「他人にも、でしょ?」
「……」

 いちいち見すかすような物言いをする人物だった。むしろ自分にたいしていちばんきびしいではないかとでも言いたげだ。

「ききましたよ、問題ありそうな転校生の面倒を見ることにしたんでしょう?」
「転校生? ……ああ、最近そんなのがうちの剣道部に入部しましたね」
「私のきいた話では、あなたが無理やり剣道部に籍をおかせたということでしたけど」

 噂好きの生徒とふれあう機会がおおいのは、石舟斎だけではないのである。ほかの教師が見るからにもてあますほど元気のありあまる生徒をわざわざかこうような真似をすすんでするなんて、この学校にもすてたものではない先生がいたものだ。

「まさか、あの子が自分から剣道場にきたんです。まったく面倒なことになりました」
「ま、そういうことにしておいてあげようかしら」
「……。はは、先生は私をかいかぶりすぎです。私はあなたが思うよりは打算的ですよ」
「あら、そうなの?」
「ええ、面倒なのはたしかですが、これからおもしろいことになる予定もあるんです」
「ふうん……」

 はたしてどこまでが本音なのか。まあ、腹のさぐりあいをするほどの関心ごとではあるまい。信玄は気をとりなおし、クッキーにまた手をのばした。石舟斎もつられてもう一枚。おいしいですね、これ。ええ、愛情たっぷりって感じ。

「ね、結局先生は、生徒の指をなめちゃえる私をやっかんでるだけなのよね」

 しかし、こちらの事柄はどうせならつついてみたいところだった。一瞬、空気がこおる。そして信玄のあまりにまえぶれない発言に唖然としている石舟斎をおいて、彼女はこれみよがしに自分のあまいくずのついた指をなめてからお茶をいれにたちあがる。私物の電気ポットで急須にお湯をそそいでから、緑茶がいいですよねとたずねた。が、おどろいている石舟斎はそれどころではない。

「……つまりは、さっきはもうなめちゃってたわけですか」
「先生があと一秒おそければなめちゃえてましたー」

 せっかくうやむやにしたさっきの所業をぺろりと白状した信玄である。とはいえ相手はおなじ穴の狢、そう、生徒たちのおもしろおかしい噂話には、剣道部の顧問と部長のあれやそれもふくまれていたりいなかったり。とはいえ、びっくりするほどわかりやすく動揺してくれた。

「ねえねえ、私いまそんなに核心つくこと言っちゃいました?」
「……。タイムリーだったことはたしかですねえ……」
「あらまあ、ラッキーだこと」

 ことん、と石舟斎のまえに湯のみをおいた信玄はうふふと笑う。

「でも、ね、先生。本当に指をなめちゃえるのって、私みたいな適当なのやあなたみたいな真面目なひとじゃなくて、もっとちがうひとなのよねえ」
「……なめるなめると連呼しないでください」

 ところで、それはつまりほかにもそういうことをやらかしてるのがいるってことですか。いちばんたちのわるいのが、いるのかもしれませんねえ。自称したとおりに適当なことを言う信玄、その真意を読む余裕はいまの石舟斎には、残念ながらない。げんなりと肩をおとした彼女はまるでなげやりになったような顔をして、しおしおと湯のみに手をかけた。

「……はあ、先生のいれるお茶はおいしいですねえ」
「うふふ、しみるでしょ?」

 しかし、べつにやっかんでいるわけではだんじてないということだけは言っておかなくてはなるまい、と石舟斎はさいごのわるあがきをした。

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 きょろきょろとあたりを見まわし、とある女生徒は保健室のまえにひとけがないことを確認した。それからいそいそと身なりをととのえて、手にもった鞄をきゅっとにぎる。そして意をけっして、そのドアをあけた。

「失礼します」
「あ、兼続。いらっしゃい」

 すると、自分の机にぼんやりほおづえをついていた保健の先生がぱっと表情をあかるくした。したのなまえをよばれたその生徒、直江兼続はあんまりすなおなその反応に、自分のほうがてれてしまった。先生、学校ではちゃんと直江さんってよんでください。それをかくすように注意めいたことを言うが、わかったわ兼続と返事をされてまいってしまった。年上であるはずのこの上杉謙信先生は、簡単に無邪気な顔をしたりこどもみたいなことを言ったりして彼女を当惑させるのだ。

「先生、ちゃんと仕事してました?」
「してたしてた」

 こうやってことばをくりかえすのは、うそをついているときだ。兼続はまったくと唇をとがらせたが、先生なんだからもっとしっかりしてください、といういつもの説教はいまばかりはひっこめることにした。そうだ、きょうはそんなことよりも、だいじな用事があるのだ。

「いまだって、怪我した子に絆創膏はってあげてたのよ」
「あれ、ほんとに仕事してたんですか」
「してたってば」

 失礼なことを言っても、謙信はにこにこして上機嫌だった。それから仕事机のとなりにある患者用のまるい椅子を兼続にすすめて全然仕事中じゃないゆるみきった顔をする。すると自然に、兼続の気もゆるんでしまった。

「あのね、そう、あの子はたしか剣道部の部長さんね。指を怪我したんだって」
「足利さん? となりのクラスで体育がいっしょだから、わたしちょっとなかよしです」
「そうそう、足利さん。道場においてる救急箱の絆創膏がきれてたんですって。なめておけばいいような傷だったんだけどね」
「あ、それ保健の先生の台詞じゃないです」
「でも私は保健の先生です」
「べ、べつにいばるところでは……」
「それにね、それは足利さんが言ったことだもの。なめておけばなおるのに顧問の先生にうるさく保健室にいけって言われたんだってずいぶん不服そうだったわ」
「えっと、たしか剣道部の顧問って柳生先生ですよね、うふふ、先生って案外過保護なんだ……」

 兼続は会話にでてきたとある教師の名を口にしてはっとした。先程顔をあわせた先生だ、そしてそうなるにいたったのは。そこまでかんがえてから、いまここにきた理由を思いだした。謙信といるといつもそうだ。マイペースな彼女にふわふわながされてしまう。それはまったくいやな感覚ではないが、本日の任務を完遂できない事態にいたることはさけねばならない。彼女はまた意をけっして、できるだけさりげなくなるように自分の鞄をあさる。

「あ、あの先生。おなかすいてませんか。わたしきのうクッキーやいて。いっぱいつくっちゃったから先生もどうかなと思って」
「本当?」

 決死の覚悟で言いつくろう兼続とは対照的に、本当は先生のためにやいたんですとは言いだせない生徒の本音を読む気もないらしい謙信は手をあわせてよろこんだ。私、兼続のつくるお菓子も料理もだいすきよ。それからあんまりうれしいことをあんまりすなおに言うものだから、なんだかまけた気分になってしまう。しかも緊張しているこちらのことなどおかまいなしに、あっさり簡単に一枚を口にほうりこんでしまう。あっと思ったのもつかの間、その表情がふわりとゆるむのを確認して、ほっと胸をなでおろす。

「えっと、ちゃんとおいしくなってるかわからないんですけど」
「兼続のつくるものでおいしくないものなんてないわ」

 謙遜してみてもまっすぐにほめられて赤面してしまう。手製のものをたべてもらうと、謙信はかならずそう言った。先程ほかのひとにたべてもらったときもおなじようなことを言われたが、あのときも謙信の顔がうかんでしまった。あの先生にはなんだかすべてを見すかされているような気がする、いつも味見をしてくれるときもまるでだれにもあかしていない想い人をしられてしまっているかのように錯覚してしまう。けれどなにも言わずにいつも話をきいてくれる彼女、やさしいやさしい、武田先生。

(でもたまにちょっと、いじわるなのよね)

 からかうように指をなめられかけたときは、本当におどろいた。しかもそれを柳生先生に見られそうになったときはあせった。

「兼続もたべましょ」
「あ、はい。じゃあ……」

 正直味見はさんざんしてあったから謙信においしいと言ってもらえたならもういらないほどだったが、謙信といっしょにおなじものをたべることはすきだったからうなずいた。ぱくりとひとくち。おいしい、うん、おいしい。謙信がそう言うのだから、そのとおりなのだ。

「おいしいわね」
「はい、……おいしいです」

 先生とたべたら、本当においしくなっちゃうの。謙信とはちがって本音を全然うまく言えない兼続は、せめて笑ってくれる彼女に一所懸命笑いかえした。瞬間、あ、と思う。デジャブ。たった一瞬のできごと。

「やっぱりおいしいわ、兼続」
「……」

 心底うれしそうにほほをゆるめている謙信、彼女の手にとられた自分のそれ。べつに怪我なんてしていないのに、だからわざわざなめる必要なんてないのに。びっくりするほどの早業で、気づいたときには彼女の舌先がクッキーのくずがのこった指をなめあげていたのだった。

「……っせ、先生」
「ん?」

 しかも、まったくもってわるびれないようす、そもそもまったく問題のある行動をしたつもりなんてないのだろう。かかか、と兼続の顔は真っ赤になるが、それにすら気づいていないくらいの謙信なのだ。まったく本当にたちがわるい、天然というのは。

「……が、学校でこういうのは、だめです」
「そうなの?」
「そうです。わかりました?」
「わかったわかった」
「……」

 あと、ちゃんと直江さんってよんでください。わかってるわかってる。にこにこしたままなんどもうなずかれて、兼続はまったくもうと思った。いったいなにをわかっているというのだろう。

「ねえ兼続、つぎの日曜はデートしましょう。兼続のいきたがってたお店にいきましょう」

 ほらね、もう、全然わかってないんだから。それでも兼続の胸のなかはほっこりとあたたまり、とっとも素敵な申し出を無視できない。おずおずとうなずく少女、そのの指先にキスをする謙信は、やはりなにもわかっていないのだった。
 
13.02.20