「あんたさあ、あたしのこときらいだろ」
自己紹介以外ではじめて話したときの台詞はたしかそれ。しかもやつはときたら、答えもしないでふんとはなをならしてさっさといってしまったのだ、と、あたしは記憶している。
「つきあわないか、今夜」
だから、出会い頭にそんな唐突な提案をされても自分に言われているなんて思いもしないのだ。あたしとバルクホルンのたったふたりしかいない廊下で思わずきょろきょろとまわりを見わたすと、おまえに言ってるにきまっている、といつぞやのようにはなをならされた。
「ワインはきらいか」
「いや……」
「じゃあ、今夜10時だ。私の部屋にきてくれ」
言いおわるが早いか、バルクホルンはさっさときびすをかえして歩きだす。仕草はどれも出会ったばかりのころとかわらず無礼千万であるが、話の内容は信じがたい。あたしは呆然とうしろ姿を見おくった。だれが聞いても晩酌の誘いで、それはあまりにあの堅物らしくなく、なによりもまさかこのあたしを誘うなんて気でもふれたんじゃなかろうかと思うほど。依然きつねにつままれたような気分だったが、かの姿が廊下のむこうへきえてしまったのであたしもあるきだす。そこでふと思った。そういえばやつの部屋ってのはどこだったかな。
「おそいな、10分遅刻だ」
その夜。部屋にはいるなりバルクホルンは嫌味たらしく簡素な室内のすみにおかれた時計を指した。たしかにその長針は盤の2の数字をそろそろすぎようとするところで、しかしあたしは肩をすくめた。
「おかしいな、あたしの部屋の時計はちょうどいい時間だったのに」
もちろんうそだ。大事な会議でもあるまいしいちいち時間厳守なんてしていられない。そもそもあたしは息ぬきをしにきたわけで、それでそんな堅苦しいことを言われるのはとんだお門違いの話だった。やつもそのあたりはわかっていたらしく、あとはため息をしずかについただけでもうなにも言わなかった。そのかわりにベッドのとなりのまるいテーブルを親指で示す。
「適当にかけてくれ」
「どうも」
テーブルのうえにはワインのボトルとふたつのグラスがならんでいた。こんなものかくしてたんですねえ、とお堅い軍人に笑いかけてみると、没収したものだ、と簡潔にかえってきた。おおかたハルトマンあたりからだろう。そこで違和感を覚える。バルクホルンが他人からとりあげたものを別の人間とあけてしまう、などということはありえるのか、それを言えばまずあたしがここにいること自体が普段のバルクホルンを見るかぎりでは激しいほどの違和感なわけだが。
ふたつのグラスに赤い液体がながしこまれる。とって口元にちかづければ、あまい芳香が鼻先をかすめた。
「ワインは残念ながらくわしくないんだけど」
「生憎、私もだ」
乾杯、とかすかな音をたててからグラスをかたむける。ゆっくりと液体を嚥下し、それから目のまえの人物を観察した。自分とおなじようにグラスに口をつけ、味わうようにまぶたをさげている。上品な面をしやがって。なんの反抗心か知らないがあたしは一気にグラスのなかをからにした。バルクホルンにはすこしおどろいた顔をされたが、そんなことはどうだっていい。正直な話、緊張していた。バルクホルンとはそりがあわないとずっと思っていて、いまはそんなやつのテリトリー内にいるのだ、しかも今日はずっとらしくないさまばかりを見せつけられて、これでやつがなにも企んでいないと思えなんてのは到底無理な話だ。ふうとため息をつくと、バルクホルンの手がボトルをつかんでまたなみなみとそそがれる。
「酒には自信がおありのようだな」
「ひとなみにはね。うまいねこのワイン」
「ふん、酒は酒だがな」
なんだ、自分で誘っておいてしらけることを言ってくれる。バルクホルンのグラスがあいたのを見はからって、あたしもさきほどのやつと同じようについでやった。
「あんたは酒がきらいなの?」
「きらいならこんなことはしていない」
「ふうん?」
そのわりにまったくたのしそうじゃない面をしているじゃないか。そう思ったけど、こちらもおそらくひとのことは言えない顔をしているだろうからことばにはしないで肩をすくめるだけにした。
「トランプだな」
宴もたけなわ、と言ってもこの面子では盛りあがりにも限界があるわけだけど、それなりに気分もよくなってきたころ、バルクホルンが提案した。
「トランプでもしようじゃないか」
「ふうん、あんたがそんな娯楽品もってるなんてねえ」
「エーリカのわすれものだ」
「エーリカの……」
ふうんと思った。普段はハルトマンとよぶくせにプライベートではファーストネームでよんでいるらしい。にやりとしてみせたが気づかれなかった。
「ポーカーは?」
「大得意。せっかくだ、ちゃんとチップも用意して賭けでもしよう」
ほんのジョークだった、この真面目なバルクホルンがのってくるとも思えなかったしね。だから、いいだろう、と言われたときには耳をうたがった。
「あれ、いいの?」
「きさまから言ったんだろう」
「だけどさ……」
これはおもしろくなってきた。じゃあわかった、やっぱり準備がめんどうだから、単純な運だめしをしよう、負けたほうが勝ったほうの言うことなんでもきく、ってのはどう。挑戦的な目つきをつくって視線をおくれば、ルールは、とかえってくる。
「カードをひけるのはいちどのゲームで二回まで。さきに三勝したほうが優勝」
提案したときに勝つ自信があったかはもう覚えていない。まあたぶん、酒のせいで気がおおきくなっていたんだな。けっきょくあたしは三連敗、軍配はバルクホルンにあがってしまったのだった。
また、グラスにワインがそそがれた。ボトルからはぽとぽととしずくが滴り、これが最後の一杯だと主張している。どうぞ、と勝者の余裕の感じられる笑みでもってバルクホルンがささやいた。
「しんじらんない、いかさまだ」
「ディーラーはずっときさまだったろうが、リベリアン」
だからって、三連敗はないだろう! ついいらつきでかつかつとテーブルで爪をならしてしまう。とはいえ、負けたことに文句を言うのはスマートじゃない。あたしはワインを一気にながしこんでからさっさとたちなおることにする。
「で、なにをすればいいわけ?」
「……」
バルクホルンはトランプをそろえなおして箱におさめている。もったいぶるなあ。ことん、とカードのおさまったケースがテーブルにおかれ、あたしはといえば、ほおづえをついてさきほどの時計をながめていた。かちかちと正確に時をきざんで、意外にも日付はまだかわっていない。ふと視界に影がおちる。目のまえの人物がたちあがったんだと一拍おいてから気づいて、それと同時にぐいと胸元をひかれた。
「……」
おどろいた、なんて表現じゃたりない。いたいと批難する間もなく、あたしの唇はやつのそれにふさがれていた。