「……そうか。そうだよな」

 長い沈黙をやぶったのはバルクホルンだった。それから床によこたわる取り上げられた自分の朝食の一部をひろいあげて、ふんと自嘲気味の笑いをもらす。

「食べ物を粗末にしちゃいけない」

 あたしが食べかけたパンを、バルクホルンに手渡される。そのときわずかに指先がふれて、思わずびくとふるえてしまったのが伝わっていなければいい。わるかった。それから一瞬の間のあとその一言だけをつぶやいて、やつはもうなにも言う気はないみたいだった。そうだ、なにもかも、もうなにもかもが、これでおわり。謝罪のことばが重く重くのしかかって、断ち切ろうとしたあたしが、こんなにショックをうけるなんてお笑いぐさだ。たちあがって、パンについたほこりをはらう。これ以上ここにいたらまたガキくさいくだらないことを言ってしまいそうでこわかったから、もうあたしは退散することにする。

「……、あの」

 でもだめだ、あたしはこんなに名残惜しいみたい。食堂の出口のほうまできたところで、まるで我慢できなかったようにうつむいたバルクホルンをふりかえる。あたし、あんたの言うことひとつ聞かなきゃいけないんだ。つぶやきくらいのちいさな声に顔をあげて、バルクホルンはふっと笑った。それを見てあたしはおどろいて、なんてひどいやつなんだろうと思う。だって、そんな笑い方はじめて見た。こいつが、こんなにきれいだったなんで知らなかった。そのときはじめて思い知ったんだ。

「きのうのことをわすれてくれれば、それでいい」

 だけど、言うことはとても残酷なのだ。そう仕向けたのは自分のくせに、あたしはまるでふられたような気分になる。きっとバルクホルンも、すぐにわすれてしまうんだ。あたしがいくらひきずっても、バルクホルンは、あっさりと。だって、あんたはしらないんだもの、本当は、本当はあたしだって。

「……了ー解」

 一生懸命間延びした声をつくる。いつもの自分になっていただろうか。もうふりむかない。ふりむけなかった。全部をごまかすようにかじった床におちてしまったパンは、なんだかすこしだけ苦かった。
 足は自然とハンガーへむかっていた。なにも考えたくないときは機械いじりに没頭するのがいちばんなのだ。我ながらわかりやすい、とにかく今は現実逃避がしたかった。
 淡々とつづく廊下、そのむこうからふと人影があらわれる。おや、と思う間にそれがハルトマンだと認識する。鼻歌でも歌っていそうないつもの表情で頭のうしろで手をくみながら、ハルトマンのほうも近づくあたしに気づいたのか、よっとでも言うようにひょいと手をあげた。あたしもそれに遠慮がちに手をふる。ああなんだかうしろめたい気持ちがでてしまった。それから特にことばもかわさずにすれちがう。

「――ハルトマン」

 だけどあたしは、呼びとめてしまうのだ。気の抜けた顔でふりかえって、ハルトマンはまばたきをする。ごくり、とつばをのんだ。

「あたし今からハンガーのほうにいってユニットの調整しようと思ってるんだけど」

 ぱちぱち、と、まばたきがさらにはっきりとした動作になる。なに言ってんだこいつ、とでも言いたげな顔。そんなのこっちもそうだった。なに言ってんだあたしは。

「……レンチを食堂にわすれてきちゃって、わるいけどとってきてくれないか」

 ああ、阿呆だ、あたしは。そんなわけない嘘が、まるで脊髄反射のように口からぼろぼろでていく。ハルトマンは今度こそぽかんとする。が、一瞬後にはあいた口をきゅっととじてあたしに近づいて、身長差にまかせてしたからのぞきこんだ。あたしは薄ら笑いをうかべて冷や汗をたらすほかない。

「ごめん」

 思わずあやまって、そしたらハルトマンはふうんとはなをならす。それから言った、そういえばきょうはトゥルーデが朝むかえにこなくて、食堂にもいなかったんだよ。

「シャーリーもいなかったから知らなかったでしょ?」
「……」

 小悪魔の笑みが見あげてきて、たぶん今の会話だけで多少のことはばれてしまったのだ。これだから聡いやつは困るんだ。あたしはきまりがわるくて頭をかいて、でもごまかすのもいやだったから顔のまえで手をあわせる。

「ごめん、バルクホルンにちょっといろいろ言っちゃった。わるかった、ほんとに」

 ゆるしてもらうため、というよりその事実をこいつに伝えるためにあやまった。そのわりに、でもいちばん大事なことは言ってないぞという言い訳もわすれなかったんだけど。ハルトマンは腕をくんでううんと唸って、すぐにどうでもよさそうな顔をする。

「べつに言ってくれてもよかったんだけどな」
「ほんとかよ……」

 そのわりにはバルクホルンにはひたかくしにしているじゃないか。思いついてもそんなことは言えないで、あたしはやつの出方を観察するしかない。数秒思案する顔をして、それからハルトマンはよしとうなずく。

「ふふん、わすれものね。わかった、とってきたげるよ。わたしはやさしいからな」
「……おう、ありがと」

 どうやら、多少どころの話じゃないらしい。不敵な笑い方に内心びくびくとしながら頷いた。ハルトマンにはもうつつぬけだ。自分をやさしいと言ったハルトマン、それは本当にそのとおりだった。
 くるりとからだのむきをかえて駆け出した。そして走りながら、ハルトマンはふりむくのだ。でもさ、もしかしたら、シャーリーのわすれものかえしにいかないかも。無邪気に挑戦的な声が心地よくひびく。なんてやつだろう、もしかしてハルトマンは、あたしがこうなってしまうとわかっていてミーナ中佐とバルクホルンの話をあたしにしたんじゃなかろうか、と、邪推してしまうほどに、ハルトマンは食えないやつなのだ。

「ぜひ、そうしてくれ」

 わざとらしいくらいに肩をすくめてからさけんだら、ハルトマンがははと笑う。そんな冗談が言えるほどあたしは楽になっていた。そうさ、ハルトマンはやさしいんだ。ことバルクホルンに対しては、あたしなんて絶対に敵いやしないんだ。あいつにはひょっとしたら大変な役を押しつけちゃったかもしれないけど、あたしは確固としてハルトマンを信じた。バルクホルンには言わなかったハルトマンの秘密は、そうするに足る確証なのだ。

「ちぇ、はらへってるのわすれてたや」

 こんなんじゃたりないけど、あと一口のこっていた、バルクホルンに手渡されたパンを口に放った。不思議なもので、今度はほんのり甘かった。

「……さて」

 あたしはぐっとのびをしてからハンガーへむかう。きょうはハルトマンとバルクホルンのストライカーも勝手にいじってしまおう。そして、ハルトマンからはわたしのかわりに調整してくれてありがとう、なんて言われて、バルクホルンには勝手なことをするなと怒鳴られよう。そうなったらいい、だってきっとそれが、あたしとやつらとの、いちばんの関係なんだ。
 ハンガーからのぞく青い空。うすく雲のかかった果てのない世界は、あしたもあさっても、ずっとずっとあたしたちのうえにあるのだ。


09.01.19再録
えせっぽいさわやかなおわりかたができてよかったな、みたいな気分だったおぼえがある