おんぼろのアパート。そろそろかよいなれたと言ってもさしつかえないそこには、やはり古ぼけた駐輪場がある。ウルスラは一台も二輪車のとまっていないその場所に、自身のこれまたつかいこんでいる灰色の自転車をとめた。
かつんかつんと音をたてて、金属の階段をのぼる。赤いさびがはみでたそれは、こわれそうで決して壊れない。ウルスラは肩にかけたスクールバッグから薄茶のカバーのかけられた文庫本をとりだして、しおりのはさまったところをひらく。そのころには目的の場所についているから、そっとインタフォンをおした。
「はいはーい」
間をおかずにドアのむこうから返事がある。ウルスラは顔をあげない。がしゃ、と重たげな音がして、あつい扉がひらいた。いらっしゃい、まってたねー。独特な口調でウルスラをむかえたのは、金髪をたかい位置でひとつにまとめ、ぴっちりとしたTシャツのせいで豊満な胸元が強調された部屋のぬしである。
「……またあるきながら本よんでたかー?」
いまだ顔をあげないままのウルスラに、キャサリンはあきれた声をあげる。それでもどうせまだうつむいたままだろうということはわかりきっていたので、そのままなかにとおすことにした。
お好み焼きパーティするね! 三日前にキャサリンはとうとつに思いつき、その二秒後には友人連中に連絡をとった。日時開催場所はすでに指定されており、そのわりに最後は強制参加の文字でしめた一括送信のメール。ウルスラからはそういえば返事がきてなかったが、時間ぴったり集合してくれた。ちゃんと参加の意志はあったみたいでよかったなあと頷きつつも、しかしだ、と思いなおす。あとのふたりは、遅刻するとぬかしてくれたのだ。
(まあいいね、ひとりで準備するのもつまらないと思ってたし)
じつは、買いものもまだすんでいない。ウルスラだけはちゃんと時間どおりにきてくれてよかった。ふたりして、スーパーにいこう。思いついて、やはりまだ活字に視線をおとしている眼鏡の少女にかかえたスクールバッグを適当におくように指示した。
「買いものいくねー」
ついたそうそうわるいけど。そう思いながらウルスラの手をひょいととる。その反対の手には当然のように本がかかえられていて、キャサリンは苦笑しつつもエコバッグと上着をつかんで玄関にむかう。きょうは火曜日だから冷凍食品が半額だ、買いこんでおかないと。
「おうちのひとに晩ごはんいらないって言ってきたか?」
「……わすれた」
「あちゃあ」
じゃあはやいうちに連絡するね。キャサリンがウルスラのブレザーのポケットをぽんとたたく。彼女はいつもここに携帯電話をいれていて、しかしそれを操作しているすがたはあまり見なかった。緩慢なうごきが四角い機械をとりだしていじる。かちかち、とちいさな音がなってメールを打っているんだとわかった。しばらくしてぱくんと携帯をとじ、もとの場所にしまう。
「お好み焼きって、なにいれればいい?」
「天かす」
「ほかには?」
「さくらえび」
「あと?」
「やまいも……」
ぶぶ、とポケットのなかがふるえる。ウルスラはまたゆっくりとした手でとりだして、画面をのぞいた。そのうえからキャサリンものぞきこむ。ちいさな字、ずるい!という短文のよこでいかりをあらわす絵文字がおどっていた。差出人欄にはこの少女の姉の名。さきほどもひそかにぬすみ見たメールの文面は、友達とお好み焼きを食べるから晩御飯はいらない、という簡素すぎる内容だった。ウルスラは文字以外に丸と点とクエスチョンマークしか使用しない。女子高生ならもっとうかれろ、とキャサリンは常々思っていたが言いはしなかった。
「こんどは、おねえさんもつれてくるね」
「いや」
「あらら、つれない」
キャサリンはこの子の姉とは顔をあわせたことはない。ただ、こうやったメールのやりとりをとなりで観察させてもらったことはなんどかあるのだ。なかなか愉快な人物だろうという予測はたっていて、それなのにウルスラはいまのように彼女にとてもそっけなかった。べつにきらっているというわけではないのだろう、きょうだいにはきょうだいのノリというものがある。
「うう、豚肉たかい……」
スーパーについてまず、ふたりは精肉コーナーにむかう。イカ玉と豚玉とどっちがいいか、といった旨のメールを昼のうちにあとふたりのパーティ参加者におくったところ、そのうちのひとりからは即時に肉とかえってきていた。気があう、とキャサリンは思っていて、ウルスラにはきくだけ無駄だろうから意見は参考にしていない。しかし、いちおうきくのが礼儀というものか。
「ウルスラ、豚玉でいいね?」
「どうでもいい」
ほらね。キャサリンは肩をすくめて、こま切れ肉のもられた発泡スチロールのトレイをつかんではかえすのをくりかえしていた。
「……ベーコンでいいかな」
つぶやいたところ、ウルスラが自分でひいているカートのかごにぽいと商品をいれた。なんだ、と思いのぞきこんでぎょっとする。
「う、ウルスラ、それしゃぶしゃぶ用のばかたかいやつね、こっち、こっちね」
あわててとりだして、かわりにさきほどまでにらみつけていたこま切れ肉のトレイをほうりこむ。さあ、つぎはキャベツだ。ごまかすように、カートをつかむウルスラの背中をおした。
「キャベツは重いほうがよくて、レタスは軽いほうがいいらしいねー」
どこかで聞きかじった豆知識を披露しながら、キャサリンはキャベツを両手にのせてはかってみる。まあこんなことをしてもきっちりとくらべられるはずもなく、ただのちょっとしたおあそびだ。ウルスラはたのしげなキャサリンをながめながら、しってた、と心のなかでつぶやいていた。
あとはお好み焼きの粉とたまごと、さきほどウルスラがあげたトッピングをかごにいれる。ちなみに粉はしっかりとやまいもいりのもの。はいっていてなにがちがうのかはよくわからないがおいしいらしいのでそうする。おっと、安売りの冷凍食品もわすれずに。ところでホットプレートはちゃんと動くかしら。最後につかった日を一生懸命思いだしながら、キャサリンは財布をのぞく。
「……」
「2483円です」
レジの中年の女性がにこやかにつげる。キャサリンはそれにへらりとした顔でこたえながらいそいでウルスラにむきあった。
「ウルスラ、いまいくらもってる?」
「……」
スクールバッグはおいていけ、と言ったのはそっちだ。ウルスラはゆっくりと、首をふった。
「ああ、冷凍食品かえなかった……」
キャサリンの財布の中身は、おこのみやきの材料費でいっぱいいっぱいだった。エコバッグを手にさげて、それの重みを十二分に感じる。その反対側ではウルスラがまたメールを打っていた。中身がまったくにていない双子のおねえさんとの会話はまだ継続中だったらしい。
「おねえさんに、おみやげにお好み焼きもってったげたらいいね」
「いらない」
「そう?」
そろそろ六時をすぎるころ。あたりはもう日もおちかけてうすぐらい。黄昏時の、ゆるやかな空気だった。