ごめんなさいってなんだよ、と思った。バルクホルンはかばんに教科書をつめながらつくえのはしにおかれた鏡をふと見る。ひどい顔だ、と自嘲して、水であらいながせばすこしはましになるだろうかと考える。いやなってくれないとこまる。
朝食をとる気にはならなかった。顔をあらって腕時計をはめて、バルクホルンは学校指定のかばんを手にさげて玄関をで、ぎくりとした。
「……」
そこにいたのはミーナだった。あまりに最悪な偶然。きょうはすこしねぼうして家をでる時間がずれたのに、それなのに毎朝とおなじくほぼ同時にミーナもむかいの家から顔をだした。おはよう、と、ミーナはつとめて明るい声をだしたが、バルクホルンにそれをくむ余裕も勇気もありはしない。
きっとこの顔はひどいままだ、寝不足と見てとれてなさけなく、まるで絶望をはりつけているようだ。ミーナは、ミーナはどんな顔をしている。確かめたくて、だけどその姿をしっかりと認識できそうにない。バルクホルンはあるきだす。朝のあいさつへの返事なんて、できるはずもなかった。
「見ちゃったよ」
登校路を淡々とひとりであるきつづけて、やっと校門前にたどりついたところで背後から声がした。ふりむけば、ふたつ年下のおさななじみの双子のかたわれがいる。エーリカは、にっとからかう顔で笑っていた。
「けんかでもした?」
おはようもすっとばし、エーリカはさきほど見てしまった光景を思いだす。バルクホルンも、すぐに彼女がなんの話をしているのか気づいてしまう。みっつあつまったわれわれの家のまえでの不自然なながめ。そこからずっと声もかけずにつけてきたのか、悪趣味にもほどがある。バルクホルンはそう思ってもそれを口にするほどの元気がなかった。
「なんでもない」
「うそつきなよ、なんでもなくてトゥルーデがミーナを無視しないよ」
「エーリカ……」
自身とおなじ制服に身をつつんだ、めずらしく朝から機嫌のいいエーリカとならんで校門をくぐる。べつにめずらしくもないことだ、ただ、この上機嫌の原因がバルクホルンにとっては冗談にならないほど深刻な事態だった。それをしらないで、エーリカはからかうのをやめない。
「ねー、けんかしたんならさ、さっさとあやまっとけばいいじゃない、ねえ?」
「そんなんじゃない」
「じゃあどうなのさ、だってさっきふたりとも……」
「うるさいんだよ、おまえは」
はっとした。もったかばんが手からすべりおちそうになったのをなんとかふせいで、むこうがたちどまったせいで一歩後ろにいってしまったエーリカをふりかえる。どなってしまった、やつあたりだ。そう思いつくまえに、呆然としていたエーリカは顔をふせてからそのわきをとおりぬけてはしりだす。途端、予鈴がなった。いろいろなことをごまかすように音がひびき、バルクホルンは、そういえばまだミーナがきていないな、と、いやになるほどむなしいことを考えていた。
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戦利品を手にひとごみからぬけだしたところで、シャーロットはそこに呆然とたつ意外な人物を見つけた。
「あれ、先輩じゃん」
呆けた横顔に声をかけると、バルクホルンははっとしたようすでこちらを見た。自分をよんだらしい人物を認識し、それがシャーロットだと気づいてああとつぶやく。それからまばたきをして、また顔のむきをもどしてから、シャーロットのぬけだしてきたところ、すなわち購買部のまえの生徒のやまを指さした。すごいな、これは。どうやら彼女は、昼休みの購買部を利用したことがないらしい。
「あんたもパン買いにきたの? そんなにのんきにしてちゃうりきれだよ、残念だねえ」
シャーロットは手にもったパンを自慢げに手のうえでなげて見せつける。しかしそれでも、バルクホルンはぼんやりとしたままだ。へんなの、とシャーロットは眉をよせる。ふだんからなにをかんがえているのかわからないむずかしそうな顔をしているくせに、きょうはなんと気のぬけたまぬけ面をしているのだろう。あの、と声をかけようとした。しかしそれよりさきに、バルクホルンはシャーロットに背をむけて歩きだしてしまう。
「……あ、ちょっと」
思わず腕をとってしまった。ぎょっとした顔がふりかえり、シャーロットも内心舌打ちする。とにかくだ、やつは昼食を買いにここにきて、しかしなにも手にもたないでいってしまおうとしている。ぱっと手をはなし数瞬思案してからため息をつき、しかたなしにみっつのパンのうちのひとつをさしだした。
「いつもは弁当なんだよね、なんできょうは購買?」
「わすれた」
「ふうん、めずらしいこともあるんですねえ」
結局、昼食をいっしょにとるはめになった。いらないとつっぱねるバルクホルンになんとかパンをにぎらせて、一年生の教室のならぶ二階にあるせまいベランダへとひっぱってきた。中庭に臨むそこは、シャーロットのなかなかに気にいっている場所であった。
なにかがあったのだということは容易に想像がつく。いっしょにたべようかと冗談で提案したことに素直にうなずかれたのだ。バルクホルンがいつもはミーナと昼食をとっていることを、シャーロットはしっていた。
「……あの」
ベランダにある柵に両腕をのせてよりかかり、ぱくりとコロッケのはさまるパンにかじりついたところでふととなりでおなじ体勢をとっている人物の唇がつぶやいた。
「部活は、真面目にとりくんでるのか。おまえはすぐにさぼりたがるから。それから、ハルトマンも。あいつは私がいないとだめだからな」
「……」
そしてつぎにでてきたのは、なんともいまさらな話だった。彼女は部活の先輩で、自分のことをえらく目の敵にしていたように思われる。あれはあれでかわいがっているのよ、と部長であったミーナに言われたことがあった気がしたが、まったくそれには納得できなかったし仮にそうだとしても気味がわるいにもほどがあった。そんなバルクホルンは、自分の所属している部活動のことを、とてもとても大切に思っているように見えていた。
「ふうん、意外だなあ。引退してからようす見にいったりしてないんだ」
あたしさ、やめたよあの部活。さらりと宣言してやれば、ぽかんとした横顔がまばたきをして、それからゆっくりとこちらをむく。なんで、とでも言いたげな表情だったから、そのつぶやきがこぼれてくるまえにシャーロットがまた口をひらく。
「まあ、あんたも部長もいないあの部活なんて、いてもしょうがないなあっていうね」
「……エーリカがいるじゃないか、なかよかったろ」
なかなか動揺しているようなのに、平然をよそおった返事がとんでくる。シャーロットはまたパンをかじり、わざとらしくゆっくりと咀嚼した。もったいぶってのみこんで、やっと口のなかがからになったのでふふと笑ってみせる。
「あいつとは、おたがいなんとなくういてたからね。そういうもん同士でいっしょにいただけかな」
それにさあ、あんた、だれかがいるから、なんて理由で部活つづけてほしいの。くしゃりとパンの包装をにぎりつぶしてふたつめの封をあける。バルクホルンは、たったひとつのパンを、まだ半分もたべていなかった。
「部長には言ったんだけどな」
「…ミーナはなにも言ってなかった」
「あは、だれにも言わないでねって言ったんだ。あのひともまじめだね、ちゃんと秘密にしといてくれた」
なんとなく中庭を見おろせば、ちいさな池が見えた。あさいはずのそれは、あんまり水がよごれているせいで底が見えない。ぼんやりとゆるやかに、シャーロットは自分がまだこどもであることを自覚していく。唐突な思考だった。だって彼女は、自分がまだ夏のことをわすれられないことをしっているのだ。
「あの試合は、あたしがでたら勝っていたよ」
県大会の、決勝戦だった。負ければミーナもバルクホルンも引退で、みんながそれをわかって試合にのぞんでいた。暑く蒸す建物のなかで、歓声ばかりが耳にとどいた。シャーロットはまた手のなかのパンにかじりつき、目はあいかわらずよごれた池を観察している。
「……まだ言ってるのか」
「言うね、あんたが卒業するまで言いつづけるよ」
「自信過剰」
「うそつきなよ、あんただってそう思ってたよ。まあ、ハルトマンでもよかっただろうけど」
あたしはさ、あんたたちに勝ってほしかっただけなんだ。そうつづけようと思ってやめる。もうおわったことだろうと、だってバルクホルンがそう言うのだ。だけれど、そんなのはおかしくてしかたのないことだ。シャーロットには、まだしっていることがあった。
「かっこつけちゃって。かくれてあんなに泣いてたくせに」
それをついに明かしてしまう。負けた日に学校にもどってきて解散した。シャーロットは思いのほか気持ちが沈んでいる自分に動揺していて、そして、ふとのぞいただれもいないはずの部室で、ミーナのかたわらで声をころして泣いているこの生真面目で厳格な先輩を見た。あたしは、あんたたちに勝ってほしかっただけなんだよ。いやな思い出で、だけれどまだしばらくはわすれられそうにない過去。
「……見てたのか」
「見たくもなかったけどね」
バルクホルンは眉と唇のはしを盛大にゆがませて、シャーロットにおしつけられたやきそばパンをおおきくかじった。食欲がなかった、いやなことばかりなのだ。ミーナの話なんていまはしたくない、かんがえたくもない。それなのにあのときのことを思いだせば当然彼女のことばかりになる。ちがう、ずっとだ。きのうまでずっとミーナのことばかりで、それで、それなのに、見えていなかったことがきっとたくさんあった。
気分がわるくなる。どうしてこんな話をしている。バルクホルンは、ミーナのこともエーリカのことも、部活動の話だっていまはわすれさりたい事柄なのだ。さわさわと、やわい風がながれて前髪をゆらす。ベランダから見おろした中庭のすみの、コンクリートの壁にはさまれたかどで木の葉がくるくるとつむじのように舞っている。シャーロットのことは苦手だと思った。いちいち余裕のある表情で、ふたつも年下だなんて思えたためしがない。きょうだって、なにひとつとしてバルクホルンのまわりでおこったことをしらないで、まるで彼女の核心をつくような話ばかりをする。不本意だが、にげるが勝ちだ。バルクホルンは唇をかんで、パンの礼を言ってからたちさろうと思う。
「ねー。あのさ、じつはあんたにあげたそのやきそばパンって、いちばん人気でなかなか手にはいんないんだよね」
「は?」
しかし唐突に、しずみかけた雰囲気をごまかすかのようにシャーロットがふざけた声をだすのだ。それにはっとしたバルクホルンが顔をあげると、その生意気な後輩はにやりといやらしい笑いをうかべていた。
「だから、こんどなんかいいもんおごってー」
「……妙におしつけがましいと思った、それがねらいか、ええ?」
「いいじゃないか、ハルトマンもさそって、ミーナ部長もさ。ね」
あかるい話題にほっとしたのもつかの間だった。シャーロットは、先程の話をやめたふりをしてアプローチの仕方をかえただけだ。ここは、いつかひまがあればな、とごまかすにかぎる場面にちがいない。それなのに、バルクホルンはものごとをうやむやにしてしまうことが、ひどく苦手な少女だった。おしだまり、となりの後輩がどんな顔をしているのか見当もつかない。
「だれも私となんか、いっしょにいたがらないさ」
「おやまあ、えらく卑屈になってるねえ」
「うるさい」
だめだと思う。きょうのバルクホルンには、やつの冗談に言いかえせるような気力がない。反論になりえないことばでシャーロットをだまらせて、バルクホルンはまたパンをかじる。購買部のいちばん人気ときくが、ひどく味気なく、このままではこれをくれたシャーロットにもつくったひとにも申し訳ない。
「ねえ」
ふとしたよびかけ。シャーロットはバルクホルンをながめていたが、彼女はもう顔をあげない。
「ハルトマンは、意地も性格もわるいけど、根はすごくいい子だよね」
「……」
相反するような評価をエーリカにくだしてみせて、シャーロットはそれ以上はもうなにも言わなかった。バルクホルンには、彼女がなにを言わんとしているのかわからない。先程からかのふたりの話をきくたび表情をゆがめているであろう自分をからかっているのか、それとも、急にふられた夏の話のつづきなのか。シャーロットは、ミーナもバルクホルンもいない部活になどいても意味がないようなことを言った。真意ははかりかね、しかしそれは、まるでエーリカにもあてはまることなのだと言いたげなのだ。
「……しってるさ、それくらい」
「あはは、だよねえ」
朝の失態を思いだす。エーリカはふたりのおさななじみがいさかいをすることをひどくきらっている、と、バルクホルンはしっていた。だからあんなふうにからかう口調だったとしても、彼女が言っていたのは確かに仲直りの方法なのだ。わかっていて、目先のいらつきに自制できなかった。最低の人間だ、とバルクホルンは思う。
「……こんなんじゃ、ミーナにふられてもしかたがない」
「え? あっ」
ひゅうと、急につよい風が吹く。それはバルクホルンの気弱な声をすっかりとかなたにとばしてしまうほどにはタイミングがよく、その発言をききとめられなかったシャーロットは、とんでいきそうになるパンの包装紙をあわててつかんで、息をついていた。