学校をでてしばらくまっすぐいって、靴屋のある角でまがってまたすこしすすむ。すると左手にゆるやかな坂道があらわれるから、そこをのぼっていけば、目的地がそびえていた。ペリーヌはなれた足でそのかすかな勾配の道路をのぼり、まず見えるのは市が管理するグラウンド、それから体育館だった。まったく利用したことのないそれらの場所をとおりすぎたいちばんおくの、市立図書館だけはペリーヌのだいすきな場所だった。
それほどおおきな施設ではないからひとがたくさんいることもあまりなく、おちつける場所。すみのほうには学習室と冠された部屋があり、しかしそんなおおげさな名がついているわりにそこには長机とパイプ椅子が適当にならべてあるだけだった。カーテンでしきられた入口をくぐって、思ったとおりにだれひとりとして利用していないその部屋のいちばんまえの右側の茶色の机にかばんをおいた。
(数学、英語、……)
すとんとすわり心地のよくないパイプ椅子に腰をおろし、かばんのなかをのぞきこむ。教科書とノート、授業でつかっているワークシートを順にながめる。ペリーヌは、試験も勉強もすきではなかった。ぺらぺらと教科書をめくり試験範囲の記述をながめ該当する部分の直筆のノートもひらき、ペリーヌはふうと息をついた。
ふと我にかえり、壁にかかるまるいアナログ時計をながめればいつのまにか一時間と半分の時間がたっていた。集中できていた自分にほっとする。なかなか勉強もはかどった。ひとさし指で眼鏡の位置をなおしてから、彼女はなんとなくたちあがる。
(カラオケだよカラオケ。みんなでさ)
廊下にでる寸前にひきとめられて、ざわざわとさわがしい教室のなかから気のぬけたことばをきいた。ばかにしているとしか思えない。ペリーヌはかすかに唇をかむ。エイラは、自分がそれにうなずくと思っていたのか、それともことわるとわかっていて、いちおうなかのいい人間であると彼女や彼女のまわりの人間に認識されているらしい自分への、ただの社交辞令としてさそっただけなのか。どちらにしても迷惑でしかない話だ。冷房のききすぎている空気のなかを、ぼんやりと見わたした。ハードカバーの小説がおかれた棚のあいだをあるく。背表紙に指先をあて、とんとんと順になぞった。ちいさな図書館のわりにマイナ−な作家の名ばかりが目にとまる。それもまた、ペリーヌがひそかにここを気にいってる理由のひとつだ。
棚のあいだからふと目にとまったのは、彼女自身が身につけている制服とおなじものをきた少女だった。見たことある子、よくここで見かける女の子だった。銀色の髪にひどく白い肌をした、いつもすこしだけかなしそうな顔をしているおなじ学校の生徒らしい少女。とはいえそれは完全にペリーヌの主観であり、ひとによればいつもねむたそうな顔をしているねと言うかもしれない。
(同学年の子であんな子は見たことがないから、きっと後輩の子だわ)
四人がけの四角いテーブルにひとりでついて、おおきな本をひらいている。なんの本をよんでいるのか、どうしていつもこの図書館にいるのか。ペリーヌはなにひとつとしてしらない。なぜなら、姿を見とめることはあっても、話しかけるようなことはまちがってもないからだった。おなじ学校の生徒なのだからあの子だってそろそろ期末試験をひかえているくせに、カラオケだなんてさわいでいるエイラとおなじようにこんなところで勉強もしないで読書にふけっているような後輩なのだ。ペリーヌはまたしてもエイラのくえない表情を思いだし、気分をわるくした。
「……みんなのんきなのね」
思わずペリーヌはつぶやき、勉強の合間の休憩はおしまいだと自分に言ってから、くるりとからだを反転させて再度学習室へと足をむけた。
「こんにちは」
唐突に肩をたたかれ、さらには頭上から声がふってきて、ペリーヌはぎくりと身をかたくした。よくきいたことのある気のするきれいな声。あわてて顔をあげ、その瞬間にちょうど壁にかかる時計が目にはいり、休憩をおえてまたこのお気に入りの席についたときにながし見た時刻からもう一時間もたっていることに気づく。それはつまり、もう閉館の時間であるということ。じゃあきっと、図書館の職員のひとがそれをつたえにきてくれたのだ。そんな希望的観測をしてみても、目のまえにいるのは彼女がよくしる、年上の赤毛のひとだった。
「……あ」
反射的に名をよびそうになり、しかしそれもできないほどにペリーヌは動揺した。こんなところで会うなんて思いもしない。ねえ、私がここにはいってきたことにも、全然気づかなかったのね。あいかわらず熱心。ふわりとうれしそうな笑みをうかべたミーナは、ペリーヌのやわらかそうな金髪にふれるようなそぶりをしてから、よせていた身をふとはなす。
「閉館の時間だわ、いっしょにでましょ」
高校の制服に身をつつんだそのひとは、四つずつの長机が二列にならんだ学習室のなかの、ペリーヌのななめうしろの机に教科書たちをひろげていた。本当に、全然気づけなかったの、私。ペリーヌははずかしくなる。ずっとみられていたのだろうか、思いついてほほが赤くなった。
「一学期の期末試験なのね、そろそろ」
「私もです」
「そう、中学校もそうなのね」
自動ドアをくぐれば、ぬるい風がふいていた。午後六時とはいえこの季節ではまだまだ空はあかるくて、いっしょに坂道をくだるミーナになにもかくせないような気になる。おさないころからしっているやさしいひと。だいすきでしかたのなかったミーナに、うまく接することができなくなったのはいつからだったか。苦手だと、いっしょにいるのがつらいと思いはじめたのはいつだったか。ミーナがふふと笑っても、ペリーヌはうまく笑いかえせている自信がもてない。
「あいかわらず、勉強がんばってるのね」
「そんなこと」
「志望校はもうきまった?」
「あ…はい、……ミーナさんと、おなじところにかよえるようになれたらって」
「うちの学校?」
うれしそうな声、ふしぎな感覚。彼女がどうして自分にやさしくしてくれるのか、ペリーヌには見当すらつかないのだ。あらでも、ペリーヌさんが入学するころにはもう私は卒業してるのね。残念そうにミーナは首をかしげ、それならば留年してしまおうか、などとおもしろくもない冗談を言った。ひどくうかれたようすに、ペリーヌは自分に会えたからだろうかとうぬぼれそうになってやめる。このひとの機嫌がいいのは、めずらしいことではない。気をつかっているのかはしらないが、ミーナはペリーヌのまえではいつも笑っていた。
「あの、ミーナさんも、もう大学はきめられたんですか?」
「あ、うん。……はじめは地元の大学って思っていたんだけど、やっぱり、ちゃんと考えることにしたの」
ただの、間をもたせるだけの質問だった。しかしペリーヌは、それをしてしまったことを後悔した。ながれとして、うけてもまったく自然なその質問に、それでもミーナはすこしだけしずんだ声でかえすのだ。余計なことを言ってしまった。ペリーヌは即座に気づくが、なにが余計なのかまでは理解しきれない。すみません、と意味もなくあやまると、ミーナは苦笑して首をふった。そこでやっと、彼女のかすかな動揺の理由をさとってしまう。
「……あの方のいる大学ですか?」
「……」
沈黙を肯定のかわりにして、ミーナはとなりをあるく少女のてのこうに自分のそれをとんとあてる。びくりと彼女の肩はゆれ、足はうごきをとめる。それはちょうど坂をおりきったところで、彼女たちの別れ道だった。
「そんな顔しないで」
「……どんな顔ですか」
「なきそうな顔」
急にのびてきた指が、ペリーヌのながい髪のさきにふれた。唐突なうごきなのに、おそろしくやわらかいそのしぐさに、ペリーヌは自分が本当に泣きそうな顔をしているのだと思った。だいじょうぶよ、ねえ、私はあのひとのこときらいじゃないわ。だいすきなくらい。
「それでも、あのひとといる私はつらそうに見える?」
「……ちがいます、そんなの」
きゅ、と手に提げたかばんをつよくにぎる。するとそれにくくりつけていたちいさな猫のぬいぐるみの首をかざる鈴がちりんとなる。だいじょうぶよ、私はだいじょうぶ。さとす声、ひとどおりのない歩道で、ミーナはゆっくりとまばたきをし、やさしげに目を細めた。
「一所懸命勉強していたのね。あなたなら、うちの高校くらいならそんなに苦労しないでしょう。あんまりおいつめちゃだめよ、自分のこと」
ちがう、そんなんじゃない、そういうことじゃないの。自分の髪にふれる手を、きゅうとにぎって抱きつきたくなった。だけれどそんなことができるわけないと、ペリーヌは半分しらけた思考で自身を見つめ、かなしくなる。
「……私、どんなにがんばっても、がんばらなくてもできちゃうひとには、かなわないんです。私、勉強なんてきらいなのにやめられないの。私には、勉強しかないの……」
弱音がこぼれる。ミーナのまえではいつもそうだった、一所懸命はっている虚勢をはがす気もない彼女のまえで、ペリーヌはいつも自分の奥底をさらしてしまう。
「ペリーヌさん」
すると彼女は、そうやっていつもやさしくてやさしくてしかたのないきれいな声をきかせてくれる。名をよんで、なぐさめるしぐさがペリーヌのほほにふれるのだ。
「私はね。私は、がんばらなくてもできちゃうより、ちゃんと一所懸命がんばって、必死になってやっと手にいれたなにかのほうが、ずっとずっと、とっても素敵だと思うわ」
ね、あなたはどう思う? 目を見て、いつのまにか至近によった表情がなげかける。そうだといい、そうだったら、とてもうれしい。ペリーヌは思って、だけれど見とれていては返事などできずさらにははいとうなずくまえに我にかえってしまうのだ。あまりにちかいそれに思考がかっとあつくなり、あわててほほにあたった手をはらう。二歩ほど身をひき、おどろいた目を見つけてしまった。
「あ…の、あの、ごめんなさい。その、私、もういきます」
うるんだ声が、ゆがんだ表情におそろしくにあっていた。ただ、かすかに朱のさすほほはそこにあるのに、なぜかいまの彼女からはういているのだ。ぱっとかけだす少女、ちりちりと、かばんにつけた鈴が音をたてていた。
排気ガスをまきちらして、ミーナのとなりの車道をトラックがとおっていく。もうきえてしまったちいさな女の子の背中、ちいさいころからほそくてよわよわしかったあの子は、おおきくなったいまでも、ミーナからしてみればはかなく守ってあげなくてはいけないと思わされる存在なのだ。
「……きらわれちゃったのかしら、やっぱり」
無意識のうちに、はらわれたてのひらをにぎる。ちかちかと、そばの歩行者用の信号が点滅している。ミーナは息をつき、もうしばらくあの子の満開の笑顔を見ていないことに気分ををしずませるほかなかった。