最近はどこもかしこも禁煙ときているものだから、ビューリングはやっと見つけた灰皿と喫煙所なるおざなりな看板をにらみつけて肩をすくめた。黒い筒状の灰皿にたてかけられた色のくすんだその看板には、本来示すべきこの場所の名称をすみのほうにおいやりながら赤字でここ以外での喫煙を禁ずとおおきく書かれ、そればかりを主張しようという意志が読みとれるのだ。多大なる人権損害だ、とビューリングはこぶしをにぎりたくなる。税を納めるという義務ははたしているのだから、権利のほうも保障されてしかるべきにちがいない。というのに、煙草をすう人間であるというだけでまゆをしかめられたりこのように煙草をすえる場所をごく一部にかぎられたりと、なぜわれわれはここまで立場をひくくされなくてはいけないのか。読書が趣味の人間はそこかしこで読書をすることをゆるされているのに、なぜ喫煙はこんなにおおきな声でいけないことだと言われなくてはいけないのか。非常に無茶な思考であるが、それとわかっていてビューリングはそう思わずにはいられない。数年前に卒業した大学のなかにある図書館のまえで、彼女はひっそりとため息をついた。
「あいかわらずだな、ビューリング君」
途端、背後からのよびかけ。ビューリングはおそろしいほどのいやな予感に、さっさとくわえていた煙草を口からこぼしそうになる。図書館をでたところにしつらえられた数段だけの石の階段をおり、そこにある駐輪場のはしに見つけた喫煙所。ふりむくか、やめるか。数秒彼女はなやみ、どちらにしてもこちらの負けなのだと思い至ってから覚悟をきめる。
「卒業を機に煙草をやめると言っていたのはだれだったかな、くくく」
せめてもの反抗にポケットからライターをとりだしくわえた白い棒に火をつけてからふりかえった。そうすればそこにいたのは、予想どおりにあいたくなくてしかたのない人物なのであった。
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エルマは本日最後の講義をうけおわったところで、きょうの夕食のことをかんがえていた。冷蔵庫にのこりものはあっただろうか、スーパーではきょうはなにがやすいだろうか。ぼんやりとしながら自分の所属する学部の棟をでる。彼女以外の学生も本日の勤めはおわったという顔で、大学の敷地内を自転車でとおりぬけたりあわてたようすではしっていったりとすがすがしい雰囲気をかかえていた。
が、そのなかでふしぎなようすのひとを見る。あれ、と思っているうちに、車道をはさむふたつの並木道のむこう側にいるそのひともエルマに気づいたようすだった。ひょいと手があがり、首をかしげていたエルマは反応がおくれ、一拍おいてやっとぺこりと会釈をすることができた。
「帰りか、もう」
「あ、はい」
さらにふしぎだったのは、そのひとが車道をのりこえ自分のそばにはしってきたことだ。きょうはバイトは。つぎにはそうたずねられ、首をふる。するとその煙草のにおいのするひとは、そうかと口角をあげてからくいと親指でどこかをしめす。
「つきあわないか、夕食」
助手席でシートベルトをつけながら、ビューリングのにおいのする車内を横目で見わたした。運転手はまってましたと言わんばかりにさっさと煙草に火をつけて、サイドブレーキをといている。こまったものだ、大学っていうのは全体が禁煙ときているからな。大学のまえにあるコンビニの駐車場にとめてあった彼女の車まで案内されながらそんなつぶやきをきいた。そういえば、そこここにとりつけられた灰皿のあるところ以外では、煙草をすってはいけないことになっている。喫煙者でなく、大学内に煙草をすう友人もいないエルマは、そんなことを気にしたことがなかった。運転席の窓はすこしだけあけられていて、そこから彼女のもらす白い煙がこぼれていく。
無言でつれてこられたのはファミリーレストランだった。どこがいい、ときかれても優柔不断なエルマにはすばやい答えは用意できなかったと思われるので、ビューリングの行動は実に合理的であったと言える。エルマ自身も質問されなかったことにほっとしつつも、かすかな違和感を覚えていた。先程からようすがおかしいのは見ていてわかったし、なにより、どうしてあんなところにいたのだろう。
「喫煙席」
ビューリングは店にはいった途端、ウェイトレスからたずねられるまえに言ってさっさとあるきだす。ここにはかよいなれているのか、迷いもなくテーブルにつく。四人がけの窓際の席。エルマはあわててあとをおった。
やつの機嫌がわるいときはわかりやすい、煙草の量が見るからにおおくなる。エルマはどんどんといっぱいになる灰皿をながめながら、キャサリンのことばを思いだしていた。そうか、いまこのひとは、機嫌がわるい。先程からの違和感の原因に思いあたる。もとから無愛想であるからわかりにくいが、きょうは幾分普段にまして目つきがわるいのだ。店にはいってからひと言もことばをかわすことなく、ぼんやりとその目を見つめていた、それが失敗だった。メニューをながめるでもなくもてあそんでいたビューリングがふいに視線をあげれば、ふたりのそれがばちとぶつかってしまったのだった。
「きめたか、注文」
「……え、あ、…あ、いえ」
そこでやっとわれにかえったエルマはまのぬけた返答しかできず、ビューリングの失笑を買う羽目になる。ひとりで気まずくなりながら、どうしよう、とエルマは思った。急に緊張するのだ。いまさらエルマが気づいたことには、彼女はこのように、ビューリングとたったふたりきりで顔をつきあわせたことがない。だいたいキャサリンやウルスラもそばにいて、そのグループのなかのエルマとビューリングなのである。そのときは気づかなかった、エルマは、いま目のまえにいる女性といったいどんな話しをすればいいのか、まったくわからない。くわえて相手の機嫌がわるいだなんてワーストコンディションにもほどがあるという話だ。
「遠慮するなよ、きょうは私がおごるから」
「え、そんなの」
「だから遠慮するなって」
メニューをさしだしならが、ビューリングが肩をすくめ、それからはっとする。わるい、と言ってから手にもっていた煙草を見、まゆをよせた。
「勝手に喫煙席にした、禁煙のほうがよかったか?」
「あ、いえ、わたしはどっちでも」
いまさらな問いかけに、エルマはここでも違和感の原因をしる。彼女は煙草をすう際に、それについてとりあえず宣言する。そうすればキャサリンあたりがすばやく却下と主張するが、いちいちそれは無視されていた。まわりの反応にしたがうようなことはないにしても、彼女は確かに、常にひと言のべてから煙草に火をつけるのだ。それなのにきょうはどうだろう。車にのった途端に平気で煙をふかし、ここでもエルマの話もきかずに喫煙席ときめた。そうかと思う。きょうのビューリングは、まったくもって冷静でないのである。大学のなかで見つけたときの彼女、ふしぎだと思ったそのようすはといえば、ひどく気分のわるそうな顔をして早足であるいていたような気がするのだ。思いかえせば運転も幾分雑だったように思われた。そもそも、自分を食事にさそうこと自体が非常に冷静でない行動ではないか、とエルマには思われる。うかびあがる不自然の数々が、徐々にひとつのものになりかける。もしかしたらこれは、不機嫌とはまたべつの現象なのかもしれない。しかしその最終結論には、あと一歩というところでたどりつけない。
「……あの、ビューリングさんはもう注文は」
「きまってる」
「あ、じゃあ、それとおなじもので」
「そんなのでいいのか?」
「はい、メニュー見たら、たぶん迷っちゃうから」
それは本当にそのとおりであった。目のまえにひろがるおいしそうな料理たちの写真。そんなものがあって、目移りしないはずがないのだ。手元のボタンがおされて店内に音がひびく。まもなくウェイトレスがやってきて、ビューリングが彼女にハンバーグセットふたつとつげたのにエルマは目をまるくした。
「……ビューリングさんもハンバーグなんてたべるんですね」
「たべるさ、そのくらい」
少々おまちください、と言い残した彼女があるいていってから思わず声をもらすと肩をすくめられる。まあ値段がいちばんやすいし、なにをたべるかいちいちなやむのもめんどうだからいつもそれときめてるんだ。ビューリングは言って、また煙草に火をつける。実になげやりな動機であるが、それでもエルマはハンバーグをたべるビューリングさんって想像してみたらけっこうかわいいなと思いついてしまい、勝手にはずかしくなった。
結局それから料理がとどくまで無言だった。あの、すみません、じゃあ、いただきます。おごると言われてうまくことわれるはずもなく、エルマは申しわけない顔をしてぺこりと頭をさげ、ビューリングはうんとみじかく返事をした。とはいえ料理をまえにかわした会話もそれだけだ。ああやっぱり気まずい。もくもくと食事をしながら、奇妙な現状にすこしだけにげだしたくなる。エルマの認識では、ビューリングは意外とよくしゃべるということになっていた。もっとよくしゃべるキャサリンとどうでもいいような顔をしながらたしかにどうでもいいような会話をしているのをよく見かけた。それによこから口をはさんだりたまに話をふられたりして、だからエルマにとってビューリングはけっして寡黙なひとではなかった。
(わたしとする話なんてないってことかしら、それとも、わたしから話題をもちかけたらのってくれるかな)
思いついても、どんな話をすればいいのかなんてわかるはずもない。しかもビューリングはあたかもエルマがそこにいることをわすれているかのようにぼんやりとして、窓のそとの風景をながめてはもの思いにふけっているような風情なのである。まるで話しかけるのもはばかられるそのようすに、やはり奇妙だとしか言いようがないと思った。どうして自分を食事にさそったりしたんだろう、考えごとがあるなら、ひとりのほうがいいだろうに。たずねたいと思ったが、なぜか核心にせまりすぎる気がしてできそうにない。
「……あの、どうしてあんなところにいたんですか」
だから、かわりにもうひとつの気になっていることを質問した。これくらいならしてもいいはず、エルマは自分に言いきかせ、妙にゆっくりとこちらにむきなおる視線をやりにくそうに見かえした。
「あんなところ、ああ、大学か。図書館に用事があった、調べたいことがあって、資料さがし」
実にあっさりとした回答、からんとテーブルのうえにあったコップがなって、水のなかの氷がすこしゆれた。しかもそれと同時にビューリングの表情がかすかにくもるのだ。ぎくりとするほかない。それで、そのせいで。ぼそりとつぶやき、すっかりと食事をおえていたビューリングはがたりと皿をテーブルのわきにおしやって、つかれきった顔でやれやれとほおづえをついたのだった。