きょうは散歩をすることにした。理由は、自転車がなかったから。
 ウルスラは目的地をたったひとつときめて、それ以外に寄り道は絶対にしないだろうとわかっていたからたったの財布だけを右手につかんで玄関をでた。するとそのすぐわきにある自転車が目にはいるはずだったのに、ふしぎなことにそこには自転車が一台ちょうどとまるだけの空間があいているだけだった。

「あら、おはよう」

 かしゃと家のひくい門をしめ、ゆっくりとあるきだそうとしたところだった。朝のあいさつが背後からとんできて、ウルスラはふとふりかえる。するとそこにいたのは、ちょうど自宅からでてきたところのおさななじみだった。

「おでかけ?」

 朝に似つかわしいおだやかな笑顔でもって、ミーナは言った。すなおにこくりとウルスラはうなずくことにして、それからじっと彼女の服装を観察した。きょうは日曜日、休日。それだというのに、彼女はこれからまるで学校にいくようなかっこうをしているのだ。

「あ、これからちょっと、勉強をしにいくの。学校にいくか図書館にいくかは、あるきながらきめようと思って」

 高校の制服のブレザーの肩のあたりをなでながら、ウルスラのふしぎそうな視線に気づいたミーナが笑う。勉強ということばに納得した、ウルスラよりも学年がふたつうえの彼女は、今年受験生だった。
 紺のブレザーにねずみ色のスカート、その真ん中にあるネクタイはえんじ色をしていて、第一ボタンのあけられたブラウスはわずかに首元がはだけられゆったりとした印象をもたせていた。ウルスラの姉もまたおなじ制服を身につけて毎朝学校にむかっているけれど、彼女がきているものとはまるでちがうものに見える。それというのも、エーリカは制服で遊ぶのもすきだから。わざわざ指定のものでないネクタイをしてみたり奇妙に派手なカーディガンをきてみたりと、寝坊をするせいでいちいち時間のない毎朝を、エーリカはそんなことでさらにせわしないものにしていた。

「あなたは?」
「ちょっと、いきたいところがあって」
「いつもは自転車なのにね」

 もっともなことを言われる。中学に入学したときにかってもらった灰色の自転車。年季のはいったお気にいりのそれは、ウルスラがちょっとしたおでかけをするときにかならずおともをしてくれるものであった。

「たぶん、エーリカにとられた」
「あらら」

 ちらり、とミーナが左腕にまいた時計に視線をおとす。それもそのはず、時刻はまだ九時をすぎたところ。あの遅起きをするのがだいすきなエーリカが、休日のこんな時間に目をさましあまつさえ外出までしているなどとはにわかには信じがたい。
 ウルスラとしても、完全なる憶測を口にしたまでだった。しかしいま自転車が忽然ときえてしまった理由を、ほかに思いつけないのだ。今朝からいちどもエーリカの顔を見ていないのはまだ自室のベッドでしあわせそうな寝息をたてているからだろうと思っていたが、ひょっとしたらこそこそとひとの自転車を拝借してあそびにでかけたからなのではないか。しかしウルスラにとって重要であるのは自転車の有無のみであり、この事態の原因の確認をするためにわざわざ家のなかにもどるような気にはなれない。

「どこいっちゃったのかしらねえ」
「しらない」
「こまったわね」
「べつに、あるいていけるところだから」
「でもあなたって、自転車がすきでしょう?」

 さらり、とミーナに指摘され、ウルスラは一瞬だけだまる。べつにいたいところをつかれたわけでもなんでもないのに、しかし当然のようにだれにも言ったことのない事実をおしえられては動揺するにきまっていた。ぱちぱちとまばたきをしてからちいさくうんとうなずき、ウルスラはなんとなくミーナから視線をはずす。
 基本的に、さまざまなことをよく見ているひとだった。ちいさなころから寄り集まったみっつの家庭のこどもたちはいっしょになってあそんでいて、ウルスラはそれから一歩ひいたところからようすを観察していることがおおかった。べつに仲間はずれにされているとかおさななじみたちとあそぶのがいやだったとかそういうことではなく、ウルスラにとってはそれが自身の立ち位置でありもっともたのしいことだった。そんななかで、たまにいっしょになってにぎやかな場所をながめてくれるひとがいて、それこそがミーナだった。ウルスラがみんなのそばでひとりぼんやりしていることをさみしいと感じる子ではないとしっておきながら、ミーナはウルスラのとなりにやってきた。そしてとくに話もせずにふたりしてぼんやりとするのだ。ウルスラには彼女がなにをしたかったのかよくわからないけれど、とてもやさしいひとなのだということはなぜか充分に感じられるむかしの記憶だった。
 
「……でも、あるくのもきらいじゃない」
「ああ、そうね。うん、そうだわ」

 なんとなく意地をはってそんなことを言うと、ミーナはふふと笑う。本当に、さまざまなことをよく見ているひとなのだ。ウルスラはそう思いつき、しかしついでとばかりにそのわりに自分のことに関してはどこまでもうまくやれないひとだということにまで思考がいたってしまう。
 最近バルクホルンとのなかがおかしなことになっていることは、べつの高校にかようようになりエーリカなどよりはよほど接する機会のへったウルスラにもたいへんよく見えてしまう事態だった。それに連動して、エーリカもまたいろいろと思うところがあるらしいことも。ウルスラは、ここでも一歩ひいたところからようすを観察することうをきめこんでいた。

「じゃあ、ごめんね、ひきとめて。いってらっしゃい」
「うん」

 ひらりとふられるてのひらにうなずいてこたえて、くるりとからだをまわしてあるきだした。たぶんミーナは、しばらく自分を見送っているにちがいない。ウルスラはぼんやりと確信しながら、なんとなくむずかゆくなる後頭部をもてあましていた。
 いつもは自転車でかける河原のそばを、きょうはゆっくりとあるいた。あるくのはきらいじゃないと、まるでいじけた反論のようにつかってしまったそのことばだったけれど、それもまたウルスラにとってはゆるぎない事実であった。土手にはえている雑草を目でおいながら、たまにちいさな花を見つけては歩調をゆるめる。
 なんとなく、エーリカのすきそうなことだと思う。姉の目には、ウルスラの見えていないことがよく見えているように思われるのだ。いまこうやって雑草の観察なんてしているのも、むかしにエーリカにほらほらきれいだね、と指をさして道端にさくあわい色の花の存在をおしえられたからにちがいないのだ。それからウルスラはあるくこともそんなにきらいじゃないと思いはじめて、ということはきょう自転車にのれなかったとはいえそれによってあるくことになったとしてもべつにわるい気はせず、むしろたまにはゆっくりするのもいいわ、という感想までいだけてしまったのだから、姉の勝手な行動に文句をたれる権利が自分にはないとまで思われた。
 ふしぎなひとだと思う、エーリカがなにをしたって、ウルスラは彼女の行動によって不快になることはないのだ。

(ひょっとして欲目なのかな)

 ウルスラはエーリカがとてもすきで、これもだれにも言っていないこと。ただし先程の自転車の話とちがうのは、もしミーナに指摘されたことがそれだったら多大に動揺を表にだしていたにちがいないということ。よくわからない、姉をしたうこの気持ちに、なぜここまで後ろめたさがつきまとうのか。
 たどりついたほそい橋、土手のうえにのびているそれには、たしかにちいさな看板はついているがかすんでよめない。まるで頭のなかまでぼんやりとしてくるような錯覚に見舞われる、エーリカのことをかんがえているとまれに味わう感覚だった。むかしなにを思ったか、キャサリンにそんなことを話したことがあった。自分よりも幾分かはながくいきているあのひとなら、その原因がわかるのかもしれないと、そう思いついた結果だったような気もする。だけれど彼女は、うんうんとうなずいてウルスラの頭をただなでて、ウルスラはかわいい、と、そうつぶやいただけだった。それはのぞんでいた対応ではまったくなく、それなのにどこか安心している自分がとてもふしぎたった。

(こたえがほしかったわけじゃなくて、わたしは)

 その手を、期待していたのだろうか。わたりおえたふるい橋、そこからのびているゆるやかな坂をくだってすこしくらく見えるほそい道へとはいりこみながら、ウルスラは急に胸があつくなっていくことを自覚した。原因はなに、エーリカなのかキャサリンなのか、はたまたミーナのせいなのか。自分のまわりにいるひとはどうしてこんなによくわからないひとばかりで、やさしくてすごいひとばかりなんだろう。
 そこは、まるで裏路地のようなところだった。しかしたしかに立ち並ぶのは商店で、それでもどこかひそやかな空気をもっていることを否定できない。そのなかでもひと際ふるぼけた、お客をまるで歓迎していないかのような一軒がある。ウルスラの目的地はまさにそこで、いつもどおりにたてつけのわるい戸をよこにすべらせた。

「いらっしゃーい、……あ」

 奥のカウンターで腰かけている店主がのんきな声をあげ、それから不躾にウルスラをながめる。それから無駄にもういちどいらっしゃいと言ってにこやかに笑った。ひどく年季のはいったこの古本屋には似つかわしくないとても若い女の子であるその店主は、すっかりとウルスラの顔をおぼえていた。それもそのはずで、なぜならウルスラは週にいちどはかならずここに顔をみせながらも、いままでけっして買い物をしたことがないからだった。いちおう義理で財布はもってきていても、本日ももとから金をだして帰る気はない。

「えへへ、最近買取した本はこのへんですよ。わたしにはよくわからないんですけど、きみなら気にいるかな。よかったら見ていって」

 ついでに言うと、どうやらあちらにしても金をださせる気がないらしい。カウンターのうえに雑誌をひろげるままに、店主は入口からいちばんとおい棚の一角を指さしてみせる。大分かよいつめた結果わかったことは、あの場所には買い取ったばかりで整理されるまえの古本がならんでいるということ。ウルスラがこくりとうなずくと、店主はまた笑う。なんとこのひとは、立ち読みならぬ座り読みのために、ウルスラ専用の椅子まで用意してくれているのだ。
 ほこりっぽい店内は意外と薄暗くなく、それというのもちょうどいい場所に窓がそなえられているからだった。しかもそれは計算されているかのように本棚のなかの商品たちには日光があたらないようになっている。
 すてきなお店ですね、と、ウルスラははじめてここをおとずれたときに当時の店主に言ったことがある。それは一年ほどまえの気がするけれど、たったそれだけのあいだにカウンターにすわるひとはかわってしまった。いつもむずかしそうな顔をしているおじいさん。誠に勝手ながら本日は休業させていただきます、の手書きの張り紙がカーテンのひかれた戸に数日ほどずっとはられていて、つぎにお店があいたと思ったら、先程の台詞からもわかるとおりに書物にそれほど興味のないらしい女のひとが店主になっていた。
 きっと、とウルスラは思う。おじいさんはもう、ここにはいないのだ。

「あ、そうだ」

 ぽん、と店主が手をたたいて、カウンターからとびだす。

「ごめん、わたしちょっとでかけたいんだけど、かわりにお店番しててくれませんか?」

 いつもわるいんだけど。そしてつづいたのは、意外でない台詞だった。彼女がまったく素性のしれない年下の女の子に留守をまかせるのは、きょうにはじまったことではない。ウルスラにはことわる理由がないから彼女はふたつ返事で了承することになり、そのつぎの瞬間には店主はごめんねと手をあわせてそそくさとからりとならした戸のむこうへときえてしまった。

(……不用心)

 自分以外がいなくなってしまった店内をながめて、ウルスラはため息をつく。もうなれてしまったこととはいえ、経営者があんな自由でいいのだろうか。
 たちならぶ本棚をながめてはとおりすぎ、いきついたいちばん奥の、先程しめされた棚。それにいれられているのは、たしかにすき勝手にならべられた統一感にかける書物たちだった。ハードカバーのものから文庫本まで雑多につめられて、ウルスラはぱちぱちとまばたきをした。洋書邦書をまずわけて、なんとなく著者名の順にならべてみる。店内の棚もそこまで厳密に整理されているわけではない。ウルスラは大雑把に分類しながら、商品たちを適当に棚につっこんでいった。

「やー。ありがとうごさいます!」

 帰ってきた店主は、思ったとおりの反応をした。ウルスラの手をとり、面倒くさい整頓をかわりにやってくれたお客に満面の笑みをそえて礼を言う。ひとなつっこい笑み、すこしエーリカに似ていると思う。自由なところも。でもそれ以上ではない。ウルスラはたぶん、エーリカのようなひとには今後の人生で二度とはあえないと思っていた。それほどに彼女のなかで双子の姉は絶対的な存在で、そう思いつくたびくるしかった。そんな話をしたら、キャサリンはまた頭をなでてくれるだろうか。

「……きょうは元気がないね」

 ふと、そのひとが言う。ひょいとかすかにうつむいた表情をのぞきこまれ、ウルスラは一歩ひく。きょうは、だなんて。常からどちらかといえば元気のない自分が、そんなふうに声をかけられるとは思いもしない。

「そう、かな」
「んー。どうかな、よくわかんない。なんとなく思っただけだから、かんちがいかも」

 えへ、と、ごまかしてしまうまえに店主のほうから笑う。ウルスラは拍子抜けしながら、思わず自分のほほにふれた。

「……なんでもない、きょうは、自転車じゃなくてあるいてきたから。ちょっとつかれたのかもしれない」
「へえ、そうなんですか」

 よくわからないことばで言いわけをして、そういえば今日の自分はひどくナーバスになっているかもしれない、と、ウルスラは気づく羽目になる。ひとのなんとなくの感覚は、意外とあてになるものなのだ。

後編
09.05.06