さわがしいのひと言につきる、というのがビューリングの現在の心持ちであった。レンタルしたビーチパラソルのしたにシートを敷きそこにすわりこみながら、ひとであふれかえる海面をながめた。まさにそれは、およぐというよりは水につかっているのだというほうがただしいような混雑具合だった。いったいどうして、こういう状況になるとわかっていて夏の暑い日に海にいきたがるのか、日本人というのは。胸のようによせたひざのうえにほおづえをつきながら、ビューリングはひとり肩をすくめてため息をついた。
「……あの」
ふとしたよびかけ。視線を右肩のうしろのほうへとむけると、逆光のなかに水にぬれる胸元があった。ぎょっとしてもうすこし視線のむきを高くする。と、太陽の余計なほどの日差しをむこう側にうけながらすこし身をかがめている人物、その素肌の持ち主はリネットだった。
「およがないんですか?」
「ん…ああ」
おずおずと砂のうえにしゃがみこみ、かすかに傾けられた小首でもってたずねられる。なにをしても、すこしひかえめな印象をうける子だと思った。姉とはおおちがい、やつはときたら、どんなことをしても大仰で大げさでわざとらしいほどに情熱的なのだ。まったく本当に極端な姉妹だ。ビューリングが適当な感想をいだいていると、リネットが何物かをさしだした。
「えっと、……コーラ、なんですけど」
「……」
後ろ手でかくしていたらしい思いがけぬプレゼントにビューリングはまばたきをし、ぼうっとしたまま反射的にうけとると、リネットはほっとしたようにまゆをさげた。あの、暑いかな、と思って。荷物番。べつにそういうつもりでもなかったが、たしかに指摘されたとおりビューリングはちょうど各人の荷物のお守をしているような具合だった。
「まあ、暑かった。ありがとう。120円でいいか」
自分の荷物のなかから財布をとりだそうとしていると、あわてたようにリネットがいいえと手をふる。
「おねえちゃんのお金で買ったから、だいじょうぶです」
えへへ、とすこしいたずらめいた表情で笑ったのに、ビューリングはすこしおどろく。うんそうか、それならいいか、と笑いかえしてみると、リネットはまた笑う。それからとなりいいですか、とたずねてきたからビューリングは意外に思った。
「いいけど、あそんでこなくていいのか」
「先生は、いいんですか?」
けっこう大胆な申し出をしておいて、しぐさはひどくおそるおそるといった風情でビューリングのとなりに腰をおろし、リネットはビーチパラソルのかげのなかに身をおさめる。そしてビューリングは、彼女の予想外の自分に対する呼び名に目をまるくした。
「先生?」
「あ、えっと、おねえちゃんとおなじところの先生なんですよね。だ、だめでしたか」
「いや、べつにかまわないけど……」
恐縮させてしまってすこしあせる。じゃあ私はリーネとよぶけど、かまわないか。とりつくろうるもりでウィルマが用いていた愛称をとっさに思いだしつかってみた。するとリネットは先程のビューリング以上に目をまるくして、それから伏し目がちになってうなずいた。その煮えきらない反応になにかまずかったのかと思うが、うなずかれてはその気まずげな理由をきくこともできない。リネットの肌はもうかわいていた。足や腕にうっすらと砂がついていて、ふしぎと日にはやけていない。
「いいのか、あそんでこなくて。ともだちはずいぶん盛りあがってるみたいだけど」
くいとビューリングがあごでしめした先。そこでは女の子のなかにひとりおとながまじって、たのしげにビーチボールをはじきあっていた。ひょっとしたら、そのおとながいちばん元気なくらいだ。はは、と思わずかすかにかわいた笑いがもれて、するとリネットがはずかしげに身をちぢめた。
「……えっと。先生は、あそんでこられないんですか?」
「うん、そもそも、水着をもってきてない」
砂浜で、シャツとジーンズといういでたちである。もともと水にはいる気などないままここにきたし、はいりたいとも思っていなかったのでビューリングにとっては当然の格好に当然の返答であった。しかしそれは、リネットの表情をくらくさせてしまう。
「あ…すみません、やっぱり、おねえちゃんが無理やりさそったんですよね。ごめんなさい、わたしがおねえちゃんについてきてっていわなきゃ、こんなことには……」
もうしわけなさそうな台詞に、ビューリングはおいおいと思う。なぜ姉のことで妹があやまるのか。
「いや、さそったのはたしかにあっちだが、くるときめたのは私だ。つまり責任は私にあって、べつにウィルマがわるいわけじゃないし、ということはきみがあやまるってのはおかしな話だ。いやそもそも、ウィルマがわるかったとしても、きみがあやまる道理はない」
なるほどな、と思った。こうやって缶ジュースをさしいれてくれたり人見知りをしそうな顔をしてわざわざ親しくないおとなの話し相手をしにきてくれたりと、それはすべて自分の姉によって他人に迷惑がかかっていると思いこんでの所業だったのだ。
「それに、そうだな。こうやって、たのしそうなようすを見てるのも、わるくない」
この子は、いらぬところまで気をまわしてしまう性質らしい。ビューリングは水着すらもってこなかった自分をすこし反省する。たしかに、こんなところでひとりでぼんやりとされていてはたのしもうにもたのしめない、という人間がでてくることもかんがえられたはずだ。
「だから、私のことは気にしないであそんできたらいい。そのほうが、私もたのしい」
フォローのつもりで適当なことを言い、するとリネットはすこしほほをあかくした。ほら、ここじゃ暑いんだろう、つめたい海にはいってすずんできたら。くいと指で彼女の友人連中のたのしそうな風景をしめすと、リネットはしばらく視線をおとし手をもじもじとしていたが、そのうちにはいとうなずいた。
「でも、ジュース、のんでから」
実はじぶんのぶんもかっていたらしい。ビューリングにわたしたものとおなじパッケージの缶ジュースをちょいともちあげて、リネットがひかえめに笑う。つまりは、のみおわるまでは話し相手をしてくれるということか。たしかにひまだったから、ありがたいと言えばありがたい。ビューリングはふっと笑ってうなずいてから、先程うけとった缶をながめた。
「コーラか」
思わずつぶやいて、なんとなく記された原材料などを読んでみる。そのうちに、リネットがあっと声をあげた。
「もしかして、炭酸とか苦手でしたか」
本当に、いらぬところにまでよく気のまわる子だ。炭酸が苦手だというのはくくりがおおきすぎるが、コーラほどのきつい炭酸までいくと少々得意ではないのだ。あたりの指摘にビューリングはぎくりとしてまばたきをする。まったくこんなこどもにいちいち気をつかわせるとは、なさけないとしか言いようがない。ビューリングは肩をすくめてみせる。
「まあ、べつにのめないわけじゃない。たまにのむのも、いいもんだしな」
「あの、ひょっとしてさっきのコーヒーも、あますぎましたか。おねえちゃんがすごい甘党なのわすれて、いつもおねえちゃんがのんでるやつかっちゃって」
しかし相手は手ごわくて、さらにはすこしまえのことまでもちだされる。これはそろそろ気がきくのをとおりこしているなあと思った。きみはもっと、きみのおねえさんのように自信をもったらいい。まあ、やつほどまでいくとやりすぎだかね。ビューリングはそんなことを思いつつも、こまったような顔がすこしかわいかったのでだまって笑うだけにする。すると少女はそのこまった顔のままで、ビューリングの笑った理由がわからないのかとまどうように首をかしげた。
ふと、そのしぐさにある子の顔が思いだされる。そういえばあいつも、いつもこまった顔で気づかれしているなあ。思いついてこんどこそビューリングの口からくくくと笑い声がもれると、ついにはなんですかとリネットにたずねられてしまう。
「いや……にてるなあと思って」
「え、おねえちゃんにですか、あんまりにてるって言われないんですけど」
「ああいや、そうじゃなくて」
しりあいの大学生にね、きみみたいにすぐにこまった顔をする子がいるんだ。ビューリングはそう言おうとして、しかし口をつぐんだ。いったいどうして、いまやつの顔がうかんで、こんなに気分がたのしくなったのか。よくわからない自分の心境に首をかしげていると、リネットがそれ以上に首をかしげてしまうから少々あわてる。
「まあたしかに、きみらはにていないな」
ごまかそうと、彼女と姉の類似点のなさを指摘してみる。するとリネットはうまくのってきてくれた。そうなんです、わたしって本当におねえちゃんの妹なのかなって、いつもふしぎでふしぎで。
「あの、おねえちゃんって、あんなのでしょう。迷惑とか、かけてませんか」
ちらりとあいかわらず海のなかでたのしげにしている姉を見て、リネットはため息をつく。こどもにたいして本気でビーチボールでアタックをかましては大笑いしている。おとなげない、とビューリングはあきれつつも、そうやってこころの底からこどもとおなじところにたてるということは、彼女の強味でもある、と思いつく。
「たしかにやつにはふりまわされることもあるが……、あいつは、リーネが思っているよりはまともな人間だ、と、思う。私は」
こくりと強い炭酸水をのどにとおして顔をしかめながら、ビューリングがふんと笑う。なあ、本当はきみもわかってるんじゃないか。ビューリングに横目でながめられ、リネットは肩をちいさくさせた。まともな人間、あの元気すぎる姉が。そんな感想を即座にいだきつつも、たしかにリネットは、わかっていた。
たとえばきょう。こうやって海についてきてくれた。さいしょにこの日がいいと姉に申し出たとき、彼女はすこしだけまばたきをしてから自分の手帳をながめていた。本当はきょうにべつの予定がはいっていたのだということは、そのようすを見ていたリネットにもなんとなく予想できていた。それなのにウィルマは、自分の都合をあとにまわして、妹のたのみをきいたのだ。
「……うん、しってます。おねえちゃんって、やさしいんです」
リネットは、すこしほほを染めながら姉をほめる。あんなふうに自分がしたいことをするふりをしているのは、ひとに気をつかわせるのがきらいだから。だから、むしろ迷惑をかけてしまうほどの勢いで元気よくふるまうのだ。ビューリングにはなかなかうまくできないことを、彼女はさらりと自然にこなしてしまう。
「まあ、うん。認めるのはしゃくだが、あいつはけっこう、すごいやつだよ」
ふっと思わず笑い声がもれ、するとリネットもてれたようすでふふと笑った。途端。
「こらー!」
怒声とともにとんできたのは緑色のビーチボール。ばちんと見事な音をたてそれはビューリングの顔面に激突し、しかもその衝撃で彼女が右手にもっていた缶ジュースがひざのうえへとおちてしまう。
「なにうちのリーネたぶらかそうとしてんのー!!」
「おーいリーネ、なにしてんだよ、海はいんないのかー?」
「リーネちゃん、ほら、うきわでふかいとこまでいってみようよお」
「ちょっと、ひとりだけ日焼けからのがれようなんて、ゆるしませんわよ!」
すこしとおくからとんでくる、四種類の声。さいしょの叫び声にはぎゃはははと愉快そうな笑い声までついていて、あとのさんにんの声にあわててうんとこたえながら、リネットは顔を青くして彼女たちとビューリングを交互に見るしかない。すっかりとジーンズがコーラまみれになって、顔はといえば衝撃をくらった瞬間のままにこおりついている。お、おねえちゃん。リネットは内心で悲鳴をあげながら、あわててタオルをひっつかんでべたべたになったひざをふいた。
「……やっぱり、前言撤回しようかな」
「ぜ、ぜひそうしてください……」
むこう側ではまだやいやいと各人がすきなことを言っている。それに返事もできないまま、リネットは額に青筋をたてているビューリングの冷静な声にふたたび内心でひいと悲鳴をあげながら、おねえちゃあん、と、やはり姉の傍若無人ぶりに泣きたくなるのであった。