智子はぐっとのびをしてから首をまわした。こきこきとかるい音がして、つかれがたまっていることを自覚する。あけはなたれた窓からはとおい喧騒がとどき、意図せずとも視線がそちらへむかう。体育の授業中らしいグラウンド、年度始めだから体力測定なるものをしているのか、こちらでは短距離を一所懸命はしっていたりあちらではソフトボールを思いきりなげたりしている。
(元気だわねえ)
ずず、とさめた日本茶をすすり、もういちど首をまわす。デスクワークはおわりそうにない。
保健室といえばひどく白いイメージがあった。ベッドのシーツ、それをかこうカーテン、壁までもが純白でしずかで、むかしから苦手な場所だった、そんな記憶が頭のすみのほうにある。まさかと思う。まさかそんなこどもだったこの私が、いま保健室の先生なんてやってるなんて。
「しつれいしまーす」
保健室のよこにひく戸があいて、女子生徒がふたりあらわれた。体操服をきた子たち、さっきの体育中の子か、とぼんやり思う。ころんじゃって、手当てしてほしいんですけど。となりの女の子をささえているほうの子が言う。智子はうなずいて、患者用の椅子を手でしめす。するとけがをしている生徒がえへと照れ笑いをうかべた。
「あんたはよくけがするわね」
「ほんとに、えへへ……」
この部屋の常連である芳佳はすとんとすわり、つきそいのリネットにありがとうと言った。
「なにしてこけたの」
「50メートル走です」
「ふうん」
赤くなった右ひざ。グラウンドのはしにある水道でちゃんとあらってきたらしいその傷口は、痛々しくすりむけていた。
「あ、わたしもうもどります」
「あれ、いっちゃうの?」
智子がさっさと治療をはじめようと消毒用の綿がはいったケースをあけていると、リネットが胸のほうまで手をあげて言い、すかさず芳佳が残念そうな声をあげる。せっかくだから授業おわるまでここにいようよ、先生っておかしいっぱいもってるんだよ。
「こらこら」
「えー、だめですか」
「よ…芳佳ちゃん」
昨年度保健委員であった芳佳は、智子となかがよかった。だから彼女が保健室に緑茶紅茶コーヒーとそろえていることも、この先生が生真面目そうな外見とはうらはらになかなか融通がきくこともよくしっていた。少女たちをおいだす気力もおきない智子は自らのながい黒髪をけだるげになでてから肩をすくめ、それを了承のかわりとした。が、つきそいの生徒はあいまいな顔で笑ってから失礼しますと言う。
「ほら、真面目な子ね。あんたとおおちがい」
「えー」
「わたし、まだソフトボールなげてないから」
「そんなのわたしもいっしょだよー」
「だから、はやくもどってきてね。授業中に測定おわらなかったら放課後にのこらなくちゃいけないよ」
「あっ、そうか」
さぼりというものは往々にしてあとからつけをはらう羽目になるものである。なかなか立派な子だなあと智子は思った。彼女自身そのことはよく理解していたが、いまこうやって目のまえにつまれている書類は面倒ごとをすっかり後回しにしていた結果である。頭でわかっているということは、実行できるということにかならずしも直結しはしない。
(あたしってどうしてこんなことになったのかしら)
失礼しました、とでていくリネットに芳佳は手をふっていて、智子はそのひざに絆創膏をはる。からりと音をたててしめられたドア、窓からはあいかわらず生徒たちの元気な声がきこえている。春らしいやわらかな風が鼻のさきをかすめていき、ぼんやりと眠気を感じた。
「ころんだらいたい?」
唐突な智子の問いかけに、芳佳はえっと声をあげる。
「そりゃ、いたいです」
「そうよねえ、じゃあ、なんで何回もころぶのかしら」
「だって……」
智子の小ばかにした言いかたにすこしだけむっとして、どじな生徒は言いわけをはじめた、かと思うが、彼女はそれ以上つづけない。不審に思い治療のためにふせていた顔をあげると、気まずげに顔を赤くして視線をおとしている芳佳がいた。その子は、だってリーネちゃんが、とかあんなにゆれて、とか意味のわからないつぶやきをぼそぼそとこぼしていたが、ややあって智子は彼女の言わんとしていることがわかってしまう。少々げんなりとした。
「50メートル、さっきの子といっしょに走ったんだ」
「えっ、はい、よくわかりましたね」
「そりゃあ……」
つまりは、となりを走っているあの子の胸に目をうばわれているうちにすっころんでしまった、ということらしい。まえまえからよくしるこの生徒にはそういうところがあって、そういえばリネットは胸のほうもなかなか立派な中学生だった。いやはや、まったくげんなりとしてしまうわけなのである。智子はため息をつき、目のまえの生徒の頭をはたいてやりたい気持ちになる。
「あんた見てたら、ほんといやな予感するのよね……」
「なんでですか?」
「しりあいとよくにてんのよ」
変態のしりあいとね、とまでは言わずにおいて、さも真剣なようすで生徒の将来を心配してみせた。中学生のうちからあんなところに奇妙な執着をみせるというのは、常識的にかんがえてふつうとは言えない、と智子は思う。そのころにはすっかりと治療はおえていたので、ぽんとガーゼのくっついている傷口をたたいてやる。
「いて」
「はい、おわり。ソフトボールでもなげてこい」
「はーい」
いい返事はとんでくるが、芳佳はたとうとしない。おりこみずみだ、この宮藤芳佳という生徒は、頭では理解していてもそれをけっして実際の行動に反映できるようなできた子ではない。でもあの、お茶を一杯いただいてから……。あまえた声をだして首をかしげ、なぜか照れ笑いをうかべている芳佳を横目でながめながら、智子は気だるげなまばたきをたったいちどだけしてみせるのだった。
「将来かあ」
ずずとこぶ茶をすすって、芳佳はつぶやいた。すっかり休憩をきめこんでしまっている智子も仕事はわきにおしやって足をくみ、リラックスしたようすでおなじように茶に息をふきかける。
「なあに、急に」
「だって、先生がさっき心配だって言うから」
「そりゃあね。あんたちょっとへんだからね」
「え、そうですか」
「まあ、自覚がないならあたしはなにも言えないけど」
「えー、なんですかそれ」
「ふん、ま、あれよ。将来なんて心配しなくても、なんだかんだでどうにかなるもんよ」
芳佳よりは数年ながくいきているという自負があったので、智子はアドバイスをしてやることにした。が、その内容はためになるとは思えない適当なもので、しかしすなおな芳佳はそうなのかなあと先生のことばを真剣に理解し自分のものにしようとする。
「先生って、むかしから保健室の先生になりたかったんですか?」
「いや、全然」
「えー」
「気づいたらなってた。そんなもんよ、仕事なんて」
「そうなんですか?」
「あたしにとってはそうね。でも、ちっちゃいころはスチュワーデスさんになりたいとか言ってたかなあ。いまはキャビンアテンダントっつうの?」
「かっこいいですね。なれなかったのは残念だけど」
「そうねえ……」
芳佳はまたお茶をすすり、あちっと声をあげる。ぼんやりとそれをながめながら、智子はまた思った。あたしって、どうしてこんなことになったのかしら。
「あたしってさあ」
「はい?」
のんきな返事をききながら、智子はすこしおどろいていた。いったい自分はなにを言いだす気なのだろう。さわさわと胸のおくがむずがゆくなっていて、勝手に智子のせんべいに手をのばしている女の子をながめる。
「あたしってこう見えて、学生時代は答辞やら送辞やら読んじゃうような優秀な生徒だったのよ」
「へー、すごい」
「お勉強だってできたし、だから大学だってけっこういいとこでてるし。むかしは、日本の未来をしょってたってやるっつう痛々しい感じのさ……」
将来、なんて単語をかるがるしく口にするんじゃなかったなあと思う。過去に思い描いていたすばらしき自らの未来像は、現在欠片も再現されていないのだった。どこでどう気持ちがさめてしまったのかはもう覚えていない。がんばることがつかれたわけでもない。だけれど、どこかで緊張の糸がきれてしまったような記憶はあった。あの瞬間の唐突な無気力感というのは、思いだしただけでもいやな感じがする。スチュワーデスさんになりたかった、日本の未来をしょってたってやりたい。……人生というものは、はかないものなのだ。
(とか言ってみたりして)
文芸気どりの発想をひとりでばかにして、智子は湯のみにのこったお茶を一気にのどにながしこんだ。すこしだけあつくて、胸のあたりがやけつくような錯覚。
「それがいまは、ただのアンニュイな保健室の先生よ」
「アンニュイってどういう意味ですか?」
「……辞書をくれ、辞書を」
デスクのうえにちょうどあった電子辞書をぽいとなげて、智子はとぼけた返答をしてくれた芳佳をあきれた横目でながし見た。そうしてから自分のまぬけさにため息がでる、なんだ、あたしときたらこんなこどもに気のきくフォローを期待していたのか。
「おっ、でたでた。アンニュイ。ものうい感じであること。また、そのさま。倦怠。へえ、アンニュイってフランス語なんですねえ」
「あ、そうなの。それはしらなかった」
「先生ってものういんですか?」
「ものういってか、もう、たるいっつうか……」
「でも先生、なんで辞書なんてもってるんですか、授業なんてうけないのに」
「書類つくるとき、ワープロでなら問題ないんだけど手書きだとたまに漢字どわすれするから、そういうとき便利なのよねえ」
「ふうん……」
芳佳はそれからもぱちぱちとちいさなキーボードをたたいてあそんでいる。それを見おろしながら智子はお茶のおかわりをいれ、せんべいを一枚つまんでから思いだす。しまった、書類がしあがっていないことをわすれていた。
「でも、よかったなあ」
めんどうくさい、と頭をかかえたところで、芳佳がぽんとつぶやいた。唐突な頭痛にひるんでいた智子は反応がおくれてしまうが、なにが、とたずねるまえに芳佳のほうから話をつづけてくれる。だって、スチュワーデスさんになってたら、先生にけがの手当てをしてもらったりいまこうやっていっしょにお茶すすったりしてなかったもの。
「わたしは、先生が保健室の先生になってくれてうれしいです」
「……」
えへへ、とてれたようなひとなつっこい笑顔をうかべて、芳佳はまたお茶をすする。それから智子が自分のために用意していたせんべいにまた勝手に手をのばしていて、しかし彼女はそれに文句を言うタイミングをさっぱりと見失ってしまっていた。そう、あたしが保健室の先生だと、あんたはうれしくて、よかったと思うのね。
「……あんたって」
「はい?」
ぼんやりとしたつぶやきがこぼれてしまう。するとその子は、ふしぎそうな目でこっちをみあげてくるのだ。ぱき、と音をたててまるいせんべいをかじっている女の子、どこかまのぬけたその表情に、智子は意図せぬ嘆息をついた。それからやっていられないような気持ちになって、とんと机にほおづえをつく。
「あんたって、犬っぽいってよく言われない?」
「なんですかそれ」
授業終了をしらせる鐘がなった。どこか気のぬけた雰囲気を感じるその音、放送の音量をぎりぎりまでちいさくしてある保健室でのそれは実にひかえめな主張だった。
「あ、じゃあ、そろそろいきますね」
「はいはい、さっさとね」
「先生つめたい」
「ふん、ま、放課後のソフトボールがんばっておくれ」
「……あっ、わすれてた」
失礼します、と芳佳はちゃんと頭をさげて、保健室をでていく。智子はそれには返事をしないで、ぴしゃりととじられるよこひきの扉をただながめていた。それからからになった湯のみと一気にへってしまったせんべいの袋へと視線をうつし、ふっと笑みをこぼす。
「犬ってきらいじゃないのよね、あたしって……」
将来なんて心配しなくても、なんだかんだでどうにかなるもんよ。本当は自分をごまかすために言った台詞だったけれど、案外的はずれでもないものだ。智子は思わずあふれてくる笑いをこらえようともせず、くっくとのどをならすのだった。