すごいです、とエルマがすなおな感想を言うと、エイラは機嫌をそこねたように机のうえに顔をふせた。
「きょうさ、もう授業おわりにしてよ」
「え、でもいまきたばっかりで」
「べつにいつも授業らしいことなんてしないじゃん」
つめたいことばに、うっとエルマがひるむ。エイラは顔をあげて、家庭教師の手のなかにあるほそい紙をとりあげた。二学期の中間考査の結果である。かがやかしい記録だった。二百人ちかくいる中学三年生のなかで、エイラはいちばんよい点数をとっていた。
「中間はおわったんだから、きょうくらいいいだろ」
「そ、そう言われましてもですね……」
エルマは、首をかしげた。この子は、機嫌のいいときがあるかといえば微妙なところだけれど、機嫌がわるいということもあまりないように思っていた。それが、きょうはこのふてくされたようすである。中間考査の結果もすばらしかったこのタイミングで、いったいどうして。そもそも、今回にかぎってなにを思ってはりきったのだろう。今年度の一学期から形ばかりの先生と生徒という関係をつづけているが、最低限の努力でそこそこの結果をだす、というのがこの子のスタンスだった気がする。
「エル姉はさあ」
そうやって、ひとりでぼんやりかんがえごとをしていたところで急によびかけられてぎょっとする。は、はい。へんにたかい声で返事をしてしまった。しかしエイラは、普段とちがいそれをからかうようなことはなく、それどころかエルマ以上にぼうっとしてほおづえをついている。
「わたしがいちばんとったら、うれしい? 勉強で」
「え、そりゃ…、すごいと思うし、いちおう先生としてはうれしいです」
「ふうん」
先生だって。実際はまったくそれらしくないくせに、なにをえらそうなことを言っているんだろう。エルマは自分で言っておいてひとりではずかしがる。そして、そんなことをしていたせいでエイラのようすがおかしいことに気づきおくれた。
「わたしはくだらないと思うけどな、そういうの」
挑発的な、というよりは自虐的な声色だった。エルマはぎくりとした。あわててエイラのほうを見ると、彼女は無表情のなかにかすかにゆがんだ眉をうかべていた。
「中学レベルの勉強なんてさ、ちょっと記憶力がよければ点数なんてとれるよ。それがなんだっていうんだろう、わたしには、こんなことのなにが大事なのか全然わからない」
いちど言ってみたい台詞だ、とエルマは思った。しかしもちろん口にはださない。まるで傷ついた顔をした生徒のまえでそんな冗談めかした台詞を言えるような図々しさを、エルマはもちあわせていなかった。
「……おともだちと、けんかしたんですか?」
だからと言って、なんとも見当ちがいな質問をしたものだと思う。それでも彼女には、妙な確信がある。中学生の女の子がこんなにさみしそうな顔をする理由がほかに考えつかなかっただけなのに、きっとそうなんだと思った。エイラはくしゃりと試験の結果がしるされた紙をにぎりつぶしていて、それから、ゆっくりとうつむいていた顔をあげた。
「ペリーヌっていうやつがいるんだ」
エイラがすこしおどろいた目で呆然としたままこたえるのをききながら、エルマは自分でもおどろくほどおちついてうなずくことができた。おとなびたところのあるこの子がはじめて見せてくれる弱気だったから、ちゃんとこたえてあげなくてはいけないと思うのだ。エル姉って、ちょっと間がぬけてるのにほんとはするどいんだな。だから、本気でおどろいたようすでそう言われて、ちょっとなさけなくなったりもしたということは秘密だ。
「べつにさ、ともだちかって言われたら、なんだかよくわからないけど。わたしはからかったりおこらせたりするばっかりだし」
ペリーヌ、という子の話だった。クラスメイトであること、性格が非常にきついこと、勉強ばかりしているやつであること。ぼそぼそとつぶやきながら、エイラはすこしてれたような顔をしていた。エルマは、けっこうすなおじゃないんだな、と思った。そんなようすでその子について話していて、ともだちじゃないはずがない。
「それで、ペリーヌがおこったんだ、あなたみたいな不真面目なひとに負けるなんていや、ばかにしないで、って。ついむっときちゃって、だから今回の中間は本気だしたんだ。そしたら、勝っちゃったんだ」
エイラは、勉強なんてできてもなんの価値もないようなことをさっき言った。それは、そのせいでともだちと仲たがいをしてしまったかららしい。あいつってわがままだよ、本気だせって言うからだしたのに、いざそれで負けたら、こんどは傷ついたみたいな顔するんだ、まるでわたしが悪者なんだ。おこっている口調なのになきそうな声で話をする。エルマはエイラをながめながら、真剣にききいっていた。
「傷つけてしまったのが、かなしいんですか?」
「勝手なのが、むかつくんだ。それに、わたしはなにもわるくない。でも」
椅子のうえでひざをかかえて、エイラはちいさくなった。顔をふせてすこし間をおいて、それからエイラはまた口をひらく。きいたことあるんだ。
「ペリーヌって、私立の進学校におちて、うちの中学きたんだって。小学校からあいつといっしょのやつが言ってた」
彼女の家はいわゆるエリート一家で、みんな立派な学校へいって立派な会社ではたらいているらしい。それでもそのことで家族からうとまれているようなことはなく、ただ単に、彼女が勝手に負い目を感じているだけらしかった。全部ひとづてにきいた話、でもそれが本当なら、そんな理由で勉強ばかりをしているだなんてばからしいとエイラは考えていた。
「こどもなんだから、こどもらしくやりたいことやればいいんだ、ペリーヌは、ばかみたいに真面目だから……」
くしゃくしゃにされた紙が、エイラの手のなかからぽとりとおちた。エルマはそれをひろいあげるようなことはなかったけれど、かわりにエイラの頭にふわりとふれる。
「……いま言ったことを、ちゃんと、その子につたえてあげられたらいいですね」
ひかえめな言い方、エイラはちぇっと舌打ちをしてふいとその手をはらう。それでも、ちいさな声でうんとうなずくこともわすれなかった。
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結局。はずかしさがあとからわいてきたらしいエイラがこどもあつかいするなと部屋をとびだしてしまったので、その日の授業はそれだけで終了した。親御さんにはエイラさんの体調がよくないみたいなのでと言いわけして休みあつかいにしてもらい、しかし玄関をでるとエイラがたっていた。
「あ、おかあさんにエイラさんは気分がわるいらしいからって言っちゃったんですけど」
「べつにいいよ。家でたのばれてないし」
エイラはさっさとあるきだす。この子がはじめて本当に笑ってくれた日から、どうしてかコンビニまで見送りをしてもらうのが自然になっていた。いつもよりけっこう早い時間だから、まだ日はしずんでいない。
ならんであるくあいだ、話をすることもあればずっとしずかなままのこともある。話をするときは他愛もないようなことばかりで、口をひらくのはもっぱらエイラ。エルマはうんうんといつも真面目な顔できき役をしていて、たまにエル姉もなんか話してよと言われてこまったりしていた。こんなつまらないわたしと、どうしてわざわざ授業がおわってからもいっしょにいてくれるのかしら。すこしむずむずする気持ち、年下の女の子ってかわいいな、とエルマがひそかに笑うと、エイラはさっきのことを思いだされていると勘ちがいしたのか、赤い顔をして歩調をはやめた。
「きょうはキャサリンさんはいないんですね」
「まだバイトの時間じゃないんだろ、きっと。きょういつもよりはやいから」
のぞきこんだコンビニのなかには顔なじみのアルバイトはいないで、いつぞやの店長を見知らぬ女の店員がふたり。そういえば毎週三人で顔をあわせるのも習慣になっていた。このあときょうにかぎってあらわれないふたりにキャサリンが心配になったりはしないかとエルマは一瞬危惧したが、彼女がいい意味でもわるい意味でも非常におおらかな人間であることを思いだして気にするのをやめた。
「あ」
ふと、声がする。エルマはさっさとふりかえっていたが、かなりのいやな予感がしたエイラは授業をはやいうちに中断したことを後悔した。普段とちがうことをすれば、普段とちがう事態になってしまうのは自然なことなのである。
「エイラさんだ」
間のぬけた声をあげたのは芳佳で、エイラ同様しまったという顔をしているのはリネット。そしてそのあいだにいるのは、いまいちばんあいたくない子だった。
「あ、エイラさんのおともだちですか」
そして動揺しているエイラに全然気づかないエルマは、にこりと笑う。しかしとなりでかたまる子にやっと目をやって、はっとした。
「もしかして、ペリーヌさん?」
エイラにとっさにたずねてからしまったと思う。そしてエイラもまたエルマの配慮をかいた発言に目を見開いておどろく。あわててエルマがあらわれた三人の子のほうへ目をやると、眼鏡をかけた真ん中の子が表情をけして、それでも目だけはすこしおおきくしていた。
「……私の、なんの話をしてたの? またばかにしてた?」
一歩まえにでて、ペリーヌは不快感をあらわにエイラを見つめた。ち、ちがう、ちがいます。エルマは仲裁しようと手をのばしかけるが、それよりもさきにエイラがなんだよと声をあげる。
「勝手に被害妄想してんなよ、わたしは、べつにおまえのことばかにしたことなんてない」
「うそよ、あなたって、いつもいつも私のこといやな目で見てるもの。私のこと、いつも……」
またさっきの顔だ、とエイラは思った。試験結果を廊下にはりだすなんてプライバシーの侵害以外のなにものでもない。一、という字のしたに書かれたエイラの名、それをいつもの四人で見あげる羽目となった。完全に、考えなしの台詞だったのだ。いちばんとれたからって、べつになんともないよな、くだらない。てれかくしだとか、そういった雑念のまざらないこころからの本音、それがペリーヌを傷つけるだなんて、簡単に気づけることだったのに。
「……またか、また、わたしが悪者なのか。なんなんだよ、もう……」
エイラはだめだと思いながらもいかりでかっと顔を赤くして、ペリーヌの手首をとった。それからなにも言わないでひっぱっていく。とめることもできず口喧嘩を見ていたひとびとはそこではっとして、芳佳とリネットがふたりをおう。が、それをとめるひとがいた。
「ちょ、ちょっとまってください、ええと……」
エルマが、口ごもりながらふたりのゆく手をさりげなくはばむ。エイラは、ちゃんとつたえられたらいいねと言ったエルマに、うんとこたえたのだ。コンビニの裏側へときえていく子たち、それを見送っていると、あのとよびかけられる。
「あの……おねえさんはだれですか?」
背のちいさいほうの子が首をかしげていた。となりの子も同様だった。はっとして、エルマははいと返事をした。
「わたしはその、エイラさんの家庭教師をさせていただいているエルマ・レイヴォネンというもので……」
「あ、エイラさんからきいたことあります。まぬけで全然年上に思えない家庭教師って。ねえリーネちゃん」
「えっ! あ、ええと…。よ、芳佳ちゃんはもうちょっとことばっていうものをえらぼうね……」
リネットがフォローにならないフォローをして、芳佳は首をかしげる。エルマはそれをながめながらはははと気のぬけた笑いかたをして、がくりと肩をおとした。