壁にかかる時計がかちこちと鳴っていた。窓のそとからは部活中の生徒の元気のよい声がきこえてきて、時折その規則的な音がシャーロットの耳に届くことを邪魔する。しかし、それにあわせるように鳴っているもう一種類の音は、まぎれることなくよくきこえた。
「そろそろ観念しろ」
その音を鳴らしているのは、教壇のよこに設置されたパイプ椅子にすわる教師だった。こつこつとボールペンのさきをかたい机のうえにたたきつけている。口調こそきびしかったが、彼女の顔はといえばほうけたようにあさっての方向をむいていて、まったく迫力もやる気も感じられなかった。
「……」
「無意味な反抗だなあ、めずらしい。生活指導の先生の言うことならはいはいすなおにきくくせに」
「それがどういう意味かわかんないんですか」
シャーロットは教師の言うように反抗的な口をきいた。たったふたりだけの部屋、物置につかわれるその教室は薄暗い。光は、窓からさしこむ日光だけをたよりにしていた。そろそろ赤くなってきたそれは、すこしだけこころもとない。
「無意味な反抗ってことは、意味なんてないと思うが」
「あたしは、いま目のまえにいるのがあんただから反抗してるって言ってんだよ」
「……それはつまり、私のことがきらいということかな」
つん、とシャーロットは無視してみせた。まえから三列目の席についたままほおづえをつき、その机のうえにひろげられた原稿用紙をできるだけとおくまでおしやる。ちなみに机上には、筆記用具すら準備されていなかった。
「おまえのすききらいは現状まったく意味をなさないよ。ふん、簡単なことだ、適当に反省してますと書けばいいだけの話じゃないか。あと教師にあんたなんて口をきくのはいただけませんねえ」
「あたしは反省していないので、反省文なんか書けないと言ってるんです」
「これはまたすなおなもんだなあ、ええ? 反省文に本気の反省を書いてもらおうなんてこっちは思っちゃいないよ。こういうのは形式的なもんだ、そっちも形式的にやってくれりゃそれでいい」
「……そういうこと言っちゃうんだ、教師のくせに」
「みんな思ってることだ。……まあ、たしかにわざわざ口にだすってのはちょっと分別がたりなかったかな」
ふむ、と教師はあごに手をあててわざとらしく考えこむ顔をした。彼女のなまえはビューリングといって、シャーロットの副担任である。度重なる校則違反、すなわち禁止されている原付での登校をやめようとしないシャーロットに、ついには生活指導の先生の堪忍袋の緒がきれた。彼により反省文の提出を言いわたされ、その監督と受理を彼女はまかされたようなのだ。だすまで帰せない、すなわち私も帰れない。おたがいのためにも、さっさと立派な反省文をかきましょうか。面倒くさそうに首をならしながらやつは言う。シャーロットは、この教師が気にくわなかった。理由はいくつかある。
「あんた、キャサリン・オヘアのことしってるの?」
「ん?」
あまりすなおにみとめたくないが、そのひとつがいまの質問とよく関係していた。あいかわらずとぼけた顔をする彼女は、シャーロットのようにとなりの教壇にほおづえをついて空のようすを観察していたが、生徒からの意外な質問に視線をうごかした。それからつえがほほからこめかみのあたりに移動して、長い足がくみなおされる。
「ああ。……そんななまえのしりあいもいたなあ」
「どういう関係なの」
「……」
ビューリングはまばたきをした。じっと観察する視線がとんでくる。そんなことよりもさっさと反省文を書いてほしいんだけど。内心そう思いながら、ビューリングはふんと鼻をならした。
「そういうきみは、やつとどういったしりあいなんだ?」
「……」
あのひとは、あたしの師匠だ。ふいに、目が伏せられる。そのつぎにはぼそりとしたつぶやきがきこえて、ビューリングは、数瞬意味をとりかねる。
「……ぶはっ」
そして正確に理解したところで、思わずふきだしてしまった。
「し、師匠。あいつが。あのまぬけのいったいどこに師事するところがあるってんだ」
「うっわ。生徒が真面目に言ってること笑うとか教師失格だと思います」
あっはっはと声をはりあげたかったが、それはさすがに自重してくくくとのどをならすにとどまらせる。そんな愉快げなビューリングとは対照的に、シャーロットはあきらかに不機嫌だった。先程までは反抗するにしてもどこか気どったようなようすがあったが、現在ではいまにも席をたってとびだしていってしまいそうなほどに感情を顔にだしていた。ビューリングはそれに気づいて、意外だと思った。
「……ふうん。まあいいか。で、どういう師匠なんだ?」
「あんたには関係ないね」
「ふん、そうか」
ビューリングはぐっとのびをして、ポケットをあさる。とりだしたのは、煙草だった。ぎょっとしているシャーロットを尻目に、彼女はまよわずそれに火をつける。ふわりと紫煙がまった。
「……あんたってまともじゃない」
「どのへんが」
「教室で煙草をすう教師なんてきいたことない」
「教室っても空き教室だ、ここは」
「屁理屈だよ、それ。だいたいそういうことされて痕跡のこされたら、どうせ喫煙疑われるのは生徒だろ、そういうのって最低だと思うんだけど」
「私はそんなにまぬけじゃない」
「どうだか」
「その証拠に、ほれ」
またポケットをあさる。そしてとりだされたのは、消臭スプレーに携帯灰皿だった。あまりに得意げなようすだったので、シャーロットは思わずあきれた。
「……話もどすけど。あのひととはどうやってしりあったわけ? 正直意味のわからん組み合わせなんだけど」
「ああ。書道教室仲間」
「はあ?」
想定外にもほどがある返答に、シャーロットは頓狂な声をあげた。なにそれ、冗談? 思わずたずねると、いたって本気なんだけどと肩をすくめられた。
「と言っても私は初回しかいってないから。まあたぶんやつもいっしょだろうけどな」
「……」
ぷかぷかと煙草をふかす不良教師を凝視する。ひょっとしてからかわれているのか。シャーロットの認識では、話の中心の件のふたりはどちらも書道教室とは無縁の人物像だった。なんとも腑におちない真相であるが、むこうはこれ以上の説明をする気がないらしい。シャーロットはすこしむっとして、なんとなく反省文用の原稿用紙を手にとって半分におりまげた。それから何回もおって、おおきな紙飛行機をつくる。
「残念ながら、原稿用紙はいくらでも用意できるぞ」
自分めがけてなげつけられたそれをひょいとかわしながら、ビューリングはふうと息をはく。黒板を背景にしているせいで、シャーロットには白いそれがよく見えた。まったく、すみません、もう原付で学校にきたりしません、って適当書けばいいだろ。そうすりゃあの生活指導のはげは満足するさ。教師のひどい説教をうけた生徒はふてくされ顔になり机に突っ伏した。視線は雲をとらえる。煙草の煙とすこし似ていた。
「おーい。おまえもすうか」
「はあ?」
もうこのまま寝てしまおうか、とシャーロットは考えたが、あちらからの意味不明なおさそいに結局またからだをもちあげた。見れば、ビューリングは一本はみでた煙草の箱をさしだして、火もちゃんとかすぞとばかりにライターをかかげていた。愕然とせざるを得ない。
「……いらない。ってか、生徒に煙草すすめるとか教師としてありえない」
「ふん、時計を見てみろ」
「……」
「何時か言ってみ」
「五時過ぎ」
「つまりはだ。私はアフターファイブにまで教師面していられるほど立派な人間じゃないってことだ」
「そもそもいまの行為はひととしてどうかっつうレベルだったと思うんだけど」
「しかし、最近の若いのは煙草とかすわんのかね」
「……なんか根本的にまちがってるよね、それ」
ぱん、と音がなった。急なことだったのでシャーロットはおどろいて、音源をさがす。が、そんな手間はいらないほどに原因は簡単にわかった。ビューリングが、自分の手をあわせて音をならしただけだった。
「さてと。そろそろがまんの限界だ。おい、いまおまえが言ったとおりに、すでに五時過ぎだ。きょうは七限までだったから、授業は何時におわった?」
唐突な質問である。シャーロットはぎくりとして、ついまばたきをする。
「……ええと、四時過ぎ」
「そうだ。つまりわれわれは、一時間もまったく無駄な時間をすごしてしまったと言える。いいか、一時間だ。これはけっこう、おおきな損だ」
「そうかな……」
「しかも、おまえはまだいいさ、自分の過失がまいた種だ。まったく、校則をやぶるならもっとうまくやれと言いたいね。そのせいで私までまきこまれた」
「それが教師の仕事なんじゃないの」
「さっきも言ったが、私はもう教師じゃない。すでに、ただの性格のわるいおとなだ」
「……」
あまりの言い草にことばもない。ぽかんと口をあけていると、ビューリングがたちあがる。それからずいずいとよってきて、ばんとシャーロットの机のうえに手をついた。その手のしたには、いつのまに用意したのかあたらしい原稿用紙がしかれていた。それに唖然としているうちに、ビューリングはつぎの行動にでる。
「あっ、なにすんだよっ」
これはプレゼントだ、中身は半分へってるが、百円ライターがおまけについてるぞ。そう言ってずいと見せつけた煙草の箱を机のよこにかけてあったかばんにつっこまれた。シャーロットがおどろいてその腕をつかむがものともしない。しかもやつの手がでてくるときには筆記用具がひっぱりだされていて、どんと机上におかれた。
「あとこれも」
奥歯でかまれたせいで変形したフィルター、すいかけの煙草を、無理やりくわえさせられる。うげっと思ったが、下手に抵抗をしてそれが自分のひざのうえにおちでもしてはたまらない。不本意ながら前歯でそれをかみしめるしかなかった。
「はい。喫煙に煙草所持。こりゃこんどこそ停学かもなあ」
「は、はあ? こんなの捏造じゃないか」
「しかし世の中ってのは不条理でね。教師の私がそういえば、不良生徒のきみの言い分なんかだれもききゃしない」
「そんなの……」
シャーロットはもちろん反論をしかける。しかし、ビューリングがどんと机をたたきつけてだまらせた。しんとしずまった室内、いまにもキスできそうなほどに顔をよせつけて、ビューリングはたっぷりと間をあけてからけけけと笑う。
「私がやさしくしてるうちに従っとけばよかったなあ、手間をとらせやがってこのくそがきめ。ほれ、あのはげのまえに煙草といっしょにつきだされるまえにさっさと書け、はやく書け、私はいますぐにでも帰りたいんだよ!」
「……」
あ、ありえねえー…。シャーロットは最低な人間を目のまえにし、とおのく意識のなかで内心でそうつぶやくほかなかった。