「こら!」
ききなれた怒鳴り声に、ウルスラは思わず足をとめた。瞬間、目のまえの家から人影がとびだしてきた。彼女のおしていた自転車にその子がぶつかりかける。クリスだった。
「ウルスラ!」
ウルスラの顔を見た途端、ちいさな幼なじみは、しめたとばかりに一瞬だけウルスラの腕にだきつく。それからすぐに自転車のうしろのほうにまわりこんだ。
「たすけて、おねがい」
懇願する目が、まるで真剣な声でおねがいする。そのころにはウルスラはすっかり事情を把握していたので、すばやく自転車にまたがる。するとクリスも、なれたうごきでふたりのりをするべく後輪の中心のでっぱりに足をかけた。
「こらクリス、まだ話は……あ! ウルスラ!」
ぐい、と力強くさいしょのひとこぎをしたところで、クリスのとびだしてきたところからもうひとつの影。横目で確認すると、バルクホルンがびっくりした顔をして、にげていくふたりを見つけていた。
「こ、こらあ!」
全然バリエーションのない怒鳴り声が、背中にとどく。ウルスラがちらりとうしろをむくと、呆然としているバルクホルンがちいさくなっていくのが見えた。エーリカならば、ぺろりと舌をだして手でもふっているところだ、と彼女は思った。
「ごめんね、ありがとう」
しばらく走ったころに、クリスが救世主の肩をぽんぽんとたたいてお礼を言った。ウルスラはふりむかず、うんとだけこたえる。自転車はすっかりとスピードをおとし、商店街のほうへむかっていた。とはいえ、そこはどちらにとっても目的地ではない。
「どこにいくところだった?」
「ちょっとね」
「ふうん。あ、ねえ。自転車、なにか改造したの?」
「え?」
「あしのっけてるとこね、なんだかまえよりのりやすいの」
「……ああ、そういえば、エーリカがふたりのりしづらいのはおもしろくないとかなんとか言ってたかもしれない」
「えっ、エーリカがこんなふうにしてくれたの?」
「それはわからないけど」
「ふうん……」
結局、おさまりのよいとおりがかったコンビニにて足をとめた。ウルスラはジュースでもかってあげようかと店内を指さしたが、クリスは首をふる。そんなことよりも話をきいてほしいようだった。ウルスラは眼鏡をおしあげながらすこし思案し、きりだした。
「トゥルーデの声、そとまできこえてた」
「はずかしいからやめてって、いつも言ってるんだよ」
するとクリスは、ほほをふくらませて不機嫌をアピールした。くわしい事情をきいてみると、いつものとおりのことだった。クリスの行動について、あきれるくらいに心配性の姉がこれでもかと口をだしてきた、というだけの話だ。まったくふだんとかわりないバルクホルン姉妹に、ウルスラは首をかしげてすこし笑った。それを目ざとく見つけたクリスは、またほほをふくらませる。
「門限なんて、意味わかんないよね。ね、ウルスラのうちは、そんなのないでしょう?」
「うん」
「やっぱり! おねえちゃんは、どこの家にだってあるってうそ言うのよ。それで、五分おくれただけでうるさいの。きのうのことなのに、今朝になってまたもちだしてきて」
それというのも、クリスが朝食にて添え物のブロッコリーをよけていたのを見つけたバルクホルンが、すききらいはしちゃだめだと説教をし、ついでとばかりにちょうど思いだしたきのうの話をほりかえした、ということだった。
「わたし、あとでちゃんとたべるつもりだったんだよ。それなのに、ごはんたべおわるまでずっとうるさいこと言ってるの。栄養のバランスがとかちゃんとかんでたべなさいとか、どれもこれもききあきてるのに」
きわめつけが、きのうのことをほりかえされたこと。たえきれなくなったクリスは、口うるさい姉をすっかり無視して、玄関へとかけだしたのだった。
ウルスラはクリスのかわいい愚痴をだまってききながら、すこしの違和感をおぼえていた。バルクホルンが口うるさい心配性であることはかわらぬ事実。しかし、クリスは、そんな姉の思いをこんなふうにめったうちにするような子だっただろうか。本当にいやなわけではない、結局は姉にたいする甘えからくる文句であるということは明確ではある。だが、この女の子はそんな甘え方をする子ではない、とウルスラは認識していたので、おどろかざるを得ない。ふと、そんなウルスラの気持ちのにじんだ視線に気づいて、クリスはすこしうつむいた。
「……あきれてる?」
「どうして?」
「わたし、ひどいことばっかり言ってる」
そして、クリス自身も、自分の変化をちゃんと感じとっていた。姉の説教が、自分にたいする愛情だなんて、ちいさなころから身にしみてわかっている。でもいやだった。ぼんやりとしたいやな感じだった。この得体のしれぬ思いの原因は、クリスにはわからない。
「ねえ、ウルスラは、エーリカにこんな気持ちになったことある?」
となりの家の姉妹は、絶好に身近な例だった。妹であるクリスは、妹であるウルスラにヒントをもとめた。しかし無情にも、彼女はあっさりと首をふる。
「わたしたちは、姉妹っていっても双子だから。たぶん、ちょっと事情がちがう」
飾り気のないその意見に、クリスは見るからにしょんぼりした。しまった、と思うがうまいフォローは見つからず、ウルスラはぽんと頭をなでてやることにする。するとさぐりさぐりの視線があがり、上目づかいに見あげられる。
「でも、すこし、わかるかもしれない」
ウルスラの姉は、なにかにつけて彼女を妹あつかいした。実際妹なのだから問題はないが、しかし、彼女たちは双子だった。姉だとか妹だとか、そんなことはまるであいまいなことだった。じれったいと感じることはまれではない。姉は妹をまもるものだとエーリカは主張するが、ウルスラだって、エーリカを大事にしたいと思っていた。そうか、と、ぼんやりとした解答が得られた気がした。
(クリスも、きっと)
頭においた手で、クリスのやわらかい髪をくしゃりとなでた。すると少女くすぐったそうに目をほそめ、はにかむ。
「クリス」
よびかければ、目を見てくれる。かわいいかわいい、幼なじみだった。うまれたころからしっている。バルクホルンがすぎるほど大切にしたがるのも、しかたがないことだと思っていた。だって、ウルスラだって充分に、それにちかい愛情をこの子に感じている。
「……サイクリング。いく?」
いつもみたいに。ウルスラが、めずらしくひそやかでない笑い方をした。年下の幼なじみをいつくしむように目をほそめ、口元をゆるめる。するとクリスは、一瞬だけほうけたあと、興奮にほほをそめてうなずいた。
「うん。いく。水筒もって、いく」
いつものもちものを思いうかべて、予期せぬイベントの開催に目をかがやかせる。でも、おねえちゃんに見つからずにとりにいけるかな。大丈夫、クリスにはエーリカのをかしてあげる。顔をよせてささやきあって、ふたりはきょうの目的地をどこにしようか思いをめぐらせた。
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ウルスラの気まぐれで走る自転車のうしろにのって、クリスはいつもわくわくするのだった。
このあいだは、すこしとおくの街で見つけた公園が目的地になった。そこにはバスケットボールのコートとゴールがあって、ウルスラはエーリカを、クリスはバルクホルンを思いうかべてすこし笑った。ゴールがひとつでコートが半分なのは3on3用のコートなんだとクリスが説明した。むかしバルクホルンにおしえてもらったことのある知識だった。ウルスラはしっていたかもしれないが、だまって説明をきいてくれた。
そのまえは、路面電車のある街を見つけた。もうひとつまえは、おおきなへちまのなる畑を見つけた。ウルスラといると、いろんなものがみられるね。以前クリスがそう言って感動すると、わたしはエーリカの妹だから、というこたえがかえってきた。少女にはどういう意味かよくわからなかったが、きっとすごくすてきなことにちがいないと思った。
「……うえ」
めずらしく、ウルスラが根をあげていた。基本的に無理なことをしようとはしないから、まいっている彼女を見られるなんてとてもめずらしい。目のまえにつづくのは坂道で、それがおわる気配はない。サイクリングのはずが、ふたりはすっかりならんで山登りをしていた。
「ねー。なんで裏山なの? 自転車じゃ無理だったんだよ」
「うん……」
途中までは意地で自転車をこいでいたが、かなり序盤のほうで精根つきてしまった。それからは、つかれきった顔で自転車をおすウルスラのとなりを、心配そうなクリスがあるいていた。かごにはいったふたつの水筒がくっついて、車体がゆれるたびかたかたとちいさな音をたてている。
きょうの目的地は、小学校の裏側にあるちいさな山のてっぺんにきまった。ただし、山とはいっても道路はしっかり舗装され、民家もたくさんならんでいる。山というよりはゆるやかな勾配の丘にそって街があるような感じだ。でもこどもたちはここを裏山とよんでいて、その頂上には、公園があった。春になると桜がさいて、すこしのひとが花見にあつまる場所だった。
「……トゥルーデを」
「え?」
桜だけじゃない、景色だって、とてもいい場所なのだ。彼女たちの街を一望できて、すべてが下界のことになる。だから提案してみた。トゥルーデを、見おろしてやったらいいと思って。
ウルスラは、この姉妹のこととなると確実にクリスの側につく子だった。ちなみに、エーリカはバルクホルンの味方はつまらないという理由でクリスのほうにきて、するとやさしいミーナだけがしかたなしにバルクホルン側につくのだ。
そうやって、ウルスラはいつもクリスの味方だった。だから、クリスがたのしくなることも、すこしはしっているつもりだった。
「……ねえ、やっぱり、わたしもおす」
すると、みごとに彼女の琴線にふれることができたらしい。さっきも自転車をおすのをかわれと言われて、そのときはせっかくことわったのに、こんどこそ、クリスは無理やりにウルスラから自転車をうばいとる。それからかけだして、そんなにいそいではすぐにばててしまう。
「はやく、ウルスラ。はやくいこうよ」
そう注意しようかと思うが、そんなにうれしそうな顔にふりむかれてはお手あげた。ウルスラはだまって、クリスのあとをおった。
「あれが、おねえちゃんたちの高校でしょう? でも、ウルスラの高校はとおいから見えないね」
「うん」
たどりついた公園のベンチに腰かけていた。それはちょうどひろい景色にむかっておかれているから、この特等席からの見晴らしは最高だった。ちいさく見える建物を指をさしては、クリスがたのしげに話をした。ウルスラはうなずくだけだったが、そのせいで会話がとぎれるようなことはない。
ちいさな山の頂、この公園には、遊具はブランコしかない。あとはいまは花をさかせていない桜の木がならぶばかりだ。ゆるやかですこしつめたい風がふいている。ここちよい感触が彼女たちのほほをなで、なんだかすこしだけ、特別の世界にいる気分だった。ふだんすごしている街並みが、ミニチュアの模型のようにそこにある。すべてを見わたすことができた。彼女たちは、ふたりしてひとつずつの水筒をかかえて、ぼんやり景色をながめている。
「ねえ、こんどは夜にきたいね。そしたら、きっときれいだよ。夜景ってやつだよね」
「夜は、あぶない。それに、どうせ夜景を見るならもっと高い山のほうがいい」
「そうなの?」
「きっと、そう」
クリスはすっかり元気になったようだった。ウルスラは安心した。手のなかの水筒をゆらすと、中身は半分ほどにへっているように感じられる。そのようすを見たクリスも真似をして、それからわたしのもう半分くらいしかないよと言う。いっしょなのが、ちょっとおかしかった。
「もっと高い山じゃ、自転車じゃ無理だね。夜じゃないとだめだから、もっと無理だ」
「わたしが車の免許をとったら、つれていく」
「ほんと?」
「うん、でも、わたしよりトゥルーデのほうがはやくとれるようになる」
「ええ、おねえちゃんじゃだめだよ。ぜったい運転下手だもの。エーリカといつもレースのゲームしてるけど、おねえちゃんっておかしいくらいまけっぱなしなの」
「……そういえば、そうか」
じゃあ、ミーナにたのんだらいい。あのひとは、きっと丁寧な運転でクリスを素敵なところにつれていってくれる。名案を思いうかべるが、免許、はやくとってね、とクリスがおねがいしたのはウルスラだった。まんざらでもなかったから、ウルスラはせっかくのナイスアイデアをのみこむことにする。
「ねえ、でも、そのときはみんなでいこうね。そうじゃないと、車の運転できないおねえちゃんがかわいそう」
すっかりと、バルクホルンは車の免許をとれないことにされていた。ウルスラは、景色から目をはなしてとなりのクリスを見た。おねえちゃん、なにしてるかな。まだおこってるかな。つぶやく少女の視線がさまよって、自分の家の屋根をさがしていた。結局、見おろしにきたわけではない。ただ、たとえ見えなくてもずっととおくても、ようすをさぐりたいとそう思ったんだろう。ウルスラはこころのなかできめつけて、ほころぶ表情をかくすつもりで眼鏡をおしあげた。