せみの鳴き声がうるさくてかなわなかった。ニッカはほほにつっとながれた汗を指先ではらって、すこしだけ視線をあげる。元気な太陽が、彼女の目をちかち かとくらませた。

「おそい」

 待ちあわせ場所には、もうひとかげがあった。そしてその子はずいぶんとえらそうなことを言うので、ニッカは肩をすくませてため息をつくしかない。

「時間ぴったりだよ」

 白い体操着の半袖をさらにまくって、二の腕全部をむきだしにしている。ふんと鼻をならした彼女は、手にもっていたペットボトルの中身をひとくちのむ。そ れから、肩にかけているかばんにそれをほうりこんでさっさとあるきだしてしまった。部活仲間であるところの直枝は、ニッカのまえではそうやっていちいち無 作法にふるまいたがった。
 待ちあわせにつかった神社の鳥居を、いやそのむこうを見あげる。頂の見えない階段、そこからせみの鳴き声がおちてくるような気がする。大木のおいしげっ た境内のほうを思いうかべ、その想像だけであつくるしい気分になった。

「まってって。あるくのはやい」

 ニッカはあわててその場からはなれようと、直枝をおった。身勝手な友人はすっかりとおくまでいってしまっている。となりにおいつくと、ちらりと横目がに らんできた。

「さっさといかないと、先輩におこられるんだろ」
「まあ、そうなんだけどさ」

 正直、いきたくないのが本音なのである。ニッカがほほをかくと、彼女の気後れを感じとったのか、直枝が顔をしかめた。

「おれは、おまえにつきあってやるんだぞ。ほんとは、おまえひとりでいけばよかったんだ」

 まったくの正論を不機嫌な声でぶつけられ、ぐうの音もでない。しかし彼女の、そうやって気乗りしていないくせに、待ちあわせの五分前にはかならず姿をあ らわしているようなところが、ニッカはきらいではなかった。
 ニッカは、先輩であるクルピンスキーからの着信音をジョーズのテーマにしている。それをきいた直枝には大笑いをされたが、彼女にとってかの先輩からの連 絡はそれほどにおそろしく、まねかれざるものなのだ。

(おっ、ちゃんとでた。えらいねえ。つぎの日曜さ、あいてる? あいてるよね。ちょっと小遣いかせぎしないかと思って)

 先日、唐突にひびいたジョーズのテーマに怖じ気づきながら電話をとったところ、クルピンスキーは有無を言わさぬようすで、ニッカの休日の予定をぬりかえ てしまった。本当ならば、日曜日は家のなかでごろごろとするはずだったのに。しかもひとりでいくのはいやだったので、脊髄反射で菅野もつれていきますと 言ってしまった。するとそのときそばにいた直枝に、思いきりなぐられてしまった。

「しかたないじゃないか、わたしを見すてないでよ」
「うるせーばか」

 適当なことを言うと、嫌悪感をあらわににらみつけられる。直枝は基本的に口も態度もわるい。しかし、それに悪意が付随することはすくない。そして残念な がら、今回はその数少ないタイミングだった。ニッカがクルピンスキーを苦手としているのならば、直枝だって、そのとおりなのだ。

「お、きたきた。こっちだよ」

 本日ふたつ目の待ちあわせ場所。中古車の販売店のまえにたっているふたりのうちのひとりが、無駄にさわやかな笑顔をうかべながら手をふっている。ニッカ はげんなりとし、直枝はうんざりとした。

「おそくなりました」
「おれはわるくない、ニパが遅刻した」
「だから遅刻はしてない」

 ついた途端に口喧嘩をはじめた後輩ふたりを、先輩ふたりが微笑ましいようなあきれたような顔でながめる。

「大丈夫、遅刻はしてないから。私たちがすこしはやくついてしまっただけ」

 らちがあかないと思ったらしい先輩の片方、アレクサンドラが仲裁にはいる。今回のこのイベントの主催者である。彼女の声にぴたりと言いあいがとまると、 クルピンスキーがまるで鶴の一声だねと笑った。

「しかしきみらんとこの体操着はあいかわらずすてきな色してるねえ。二度ときたくないよ」

 そして、ふたりの格好を見てまた笑う。彼女たちのかよう中学校の体操着をきてくるように指定しておいてのこの言い草である。口喧嘩の名残でにらみあって いたふたりは、こんどは息ぴったりにクルピンスキーを見る。数年前は自分だってこれをきていたくせに、と思うが、どちらも口にだしては言わない。小豆色の 指定ジャージ、いま身につけている夏用のハーフパンツもまた、おなじ色をしている。体育の授業以外でこんなものを着たい中学生なんていないというのに、そ うとわかっていながらこの先輩はこの格好をさせているわけである。本当にいやならそんなもの無視してしまえばいいのに、ニッカも直枝もそれと気づかずした がっているあたり、根が体育会系らしい。ちなみに先輩ふたりは、思い思いのおしゃれなジャージを身に着けているのだった。

「とりあえず、これで全員集合なので。いきましょう」

 アレクサンドラがぽんと手をたたき、中古車屋のなかにはいっていく。ふたりが体育系ならば、彼女は委員長体質である。彼女にとってはなれた場所であるら しいそこの、事務所の自動ドアをくぐる。けれどなかにはだれもおらず、さらに裏口のようなところへとすすむ。きょろきょろとあたりをうかがうニッカと直枝 から先行するふたり、アレクサンドラは長身の隣人をちらりと見あげた。あいかわらずのうすら笑い。

「あなたって、本当に……」
「ふ、中学生には中学生らしいかっこしててほしいじゃない」

 あきれてみせると、クルピンスキーは気にもしないでにこにこした。まま、きみもそんなつまらなそうな顔しないで。せっかくなつかしい顔ぶれなんだから。 ぽんと肩をたたかれ、まばたきをしてしまう。
 アレクサンドラにとっては中学校のころの、クルピンスキーにとっては小学校のころの後輩たち。なつかしい、といっても、なんだかんだでたびたびあつまる 用事が発生するので、なかなかそんな気持ちにはなりがたい。そうやってクルピンスキーがいちいち招集をかけたがることを後輩の女の子たちは迷惑がるような 顔をし、彼女の気まぐれさに閉口するような態度をとる。彼女が気づかいやでありさみしがりやであるからだと、あの子たちはしらないのであろう、とアレクサ ンドラは予測をたてる。それというのも、クルピンスキーがいちいち先輩の威厳を笠にきるようなやり方をするからだ。それはひょっとしたらただのてれかくし で、つかみどころのない年上のひとの意外な一面が垣間見えて、アレクサンドラはすこし笑った。

「やな笑い方だねえ」
「あなたにはまけます」
「ははは」

 ぽんぽん、とまた肩をたたかれる。しかもそれがこんどは肩に腕をまわしてわざわざとおいほうにほどこされたものだから、このさわり癖だけはどうにかして ほしいものだ、と思った。
 裏口からでると駐車場があり、けっこうな台数の車がならんでいた。さらに奥のほうには車の整備工場がある。するとタイミングよくその敷地に隣接していた 民家からひとかげがあらわれ、アレクサンドラがそのひとに頭をさげたのでみんなもならった。

「おまちしてましたー」

 どうやらそこは、この中古車屋を経営している一家のすむ家らしい。あらわれた人物はジュゼッピーナ・チュインニと名のり、手順を説明しはじめる。クルピ ンスキーのいう小遣い稼ぎとは、洗車のアルバイトだった。

「洗剤とかは、つかわなくていいです。そこの蛇口からホースとバケツで水ひいて水かけて、このタオルで水拭きしたあとこっちので乾拭きしてください」

 あ、ちなみにあたしはただのバイトなので、なにかあってもどうすればいいのかわからないので、なにもないようによろしくおねがいしまーす。非常に適当な 説明のあとに順に道具を手渡される。それから彼女は自分の仕事は完了したという顔をして、事務所のほうへとひっこんでいった。

「……なんというか、かるいおねえさんだね」

 クルピンスキーにそう評されるのだから、よっぽどである。ニッカと直枝は顔を見あわせてまばたきをし、アレクサンドラは首をかしげた。

「大丈夫なの、あのひと」
「……私もはじめてあったので、なんとも。バイトのひとなんてやとったのね」

 ちらり、と民家のほうを見る。おとなしそうな外見とは裏腹に機械いじりが趣味である彼女は、ちいさなころからここの整備工場にいりびたっていた。ここを 経営している一家とも従業員とも顔見知りであったが、いままでアルバイトをやとったようなことはなかったように思われる。しかも、あんなふにゃふにゃした ひとを。釈然としないまま、とりあえずみんなのほうを見る。

「きいたとおりです。ここにある車をきれいにすること。手早くすませましょう」
「こ、ここの全部……」
「けっこう量あるなあ」

 ずらりとならぶ中古車に、ニッカと直枝が怖じ気づく。そこでふと、ニッカが思いだしたようにあっと声をあげた。

「そういえば、ジョゼ先輩と下原先輩は」
「ジョゼさんは病欠、定子さんはおうちの用事で不参加」

 するとアレクサンドラが簡潔にこたえる。すこしでも人手がほしかったが、そういうことならしかたがない。しかし残念な気持ちは、それ以外の原因からもわ いてくる。後輩たちはちらりとおたがいを盗み見る。そのふたつの表情がすこしつまらなそうだったから、ふたりもやっぱりなんだかんだでこうやってみんなで あつまることがきらいではないのだな、とアレクサンドラは思う。クルピンスキーのほうを見ると、彼女はずいぶんと満足げだった。

「はーい。それじゃあ、がんばろうね。やっぱりこういうのは、後輩たちが率先してがんばるべきだよね」

 にこにこしながら、クルピンスキーは両人の肩をだいた。おもいです!とか邪魔だ!とか元気のいい反応をする子たちを、ぎゅうぎゅうとだく。アレクサンド ラはみっつのくっついた背中をながめながら、ふうとしずかな息をついた。それからさあはじめましょうかと言おうとするが、クルピンスキーがそういえばと思 いついて彼女のでばなをくじいてしまう。

「ふたりとも、うちの高校きてくれるんだよね?」
「またその話ですか」
「おれは絶対やだ」
「やだってか、無理なんじゃない」
「うるさい!」
「なんだい、つれないことわないでよ」
「だいたい、わたしたちが高校はいるころには先輩は卒業してるじゃないですか」
「うちは大学付属だもの。そのままエスカレートしてうちの大学はいれば、小学校ぶりにニパくんとなおちゃんが直属の後輩になるってわけ。中学高校は年齢的 にいっしょにいれなくてさみしかったよ」
「しりませんよそんなこと。そもそも、菅野はもちろんわたしだって偏差値的に無理っす」
「おれはもちろんってなんだよ! なんにしたってやだ! ぜったいやだ!」

 唐突に、ぎゃあとかひっとかとさけび声があがる。おおかた真ん中にいる人物が両脇の子のへんなところをさわったのだろう。アレクサンドラはひくと唇のは しをひきつらせ、つかつかと背後によって直枝をとりあげた。残念ながらニッカは無視された。まったく、あれやこれやと言いながら、まったく仲のいい三人組 である。

「先輩、いいかげんにしてくださいね」

 にこっと笑ったアレクサンドラの額には、青筋がたっている。なにがおきたのかわかっていない直枝は、彼女の腕のなかでぱちくりまばたきをしている。その とき、ふとアレクサンドラは気づく。

「はーい。まったく、なおちゃんとニパくんのせいでおこられたよ」
「それまじで言ってるんですか……」

 ニッカはうんざりとするが、もっとうるさく文句を言いそうな子はだまったままだった。あれと思ってニッカが彼女のほうを見ると、直枝はアレクサンドラに 手をとられてこまった顔をしていた。彼女は、そっとその細い腕に視線をすべらせる。

「日焼け止めは、ちゃんとぬってきた?」
「な、なんだよそれ。そんなのいらない」
「だめよ」
「い、いいったら……」 

 自分のかばんをあさりはじめたアレクサンドラに直枝はあせるが、ぐっと手をにぎられていてはにげられない。おやおや、と思っていると、またクルピンス キーに肩をだかれる。それから彼女はまったくとつぶやいてはくすくす笑う。

「微笑ましいふたりですよね」

 ニッカがつぶやくと、うらやましいのかいとからかわれてしまった。べつにそういうわけではないが、アレクサンドラはたまにはねっかえりの直枝をすっかり おとなしくさせてしまう。直枝に日焼け止めなんて全然にあわないのに、アレクサンドラがあとでやけた皮膚をいたがる直枝を心配しはじめると、ちゃんと言う ことをききなさいよという気分になった。

「微笑ましい、ね。そんなにかわいらしいものかな、あれは」
「え?」
「い、いくぞニパ!」

 ふとつぶやかれたクルピンスキーの意味深なことばは、しかし唐突に直枝に腕をひかれてかきけされてしまう。わ、ちょ、まった! ニッカがさけぶが、直枝 はとまらない。どうにかアレクサンドラからにげだせたらしい彼女は、ニッカを道連れにしてさっさと作業を開始することにしたらしい。

「あっは。元気があってけっこうだねえ」
「ええ、本当に」

 結局日焼け止めはぬらせてもらえなかったらしいアレクサンドラは、それでも満足げだった。にこにこと笑い、かけていくふたりを見送る。そしてふと、先 輩、とクルピンスキーをよぶ。

「うん?」
「私、あの子になまえをよばれたことがないんです」
「……」

 急な話題に、まばたきをしてしまう。彼女はほほをかいてから、そりゃあさみしいねえ、と適当なことを言った。しかし、アレクサンドラはふふと笑うのだ。

「いえ、そういうところが、すごくかわいいと思います」

 はねっかえりのてれやは、やさしい年上の女のひとのまえではいつだって萎縮しっぱなしだ。そんな少女を、彼女は、そっとそっと大事にしたいと思ってい る。クルピンスキーは、肩をすくめるしかない。微笑ましいなんて、よく言えたものである。あれはまさしく、熱烈なラブアタックだ。

「牽制されるなんて思わなかった。なおちゃんのおっぱいさわったのおこってるの?」
「……さわったの、胸なんですか」
「あらら、やぶへび?」

 にこにこ笑いながらアレクサンドラはびしっと蛇口のあるほうを指さした。先輩、水くんできてください。バケツいっぱいに、全員分です。クルピンスキーは 了解とおどけた調子でうなずいて、にげるように駐車場のはしにある蛇口のほうへとかけだしたのだった。

後編
11.01.10