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これのつづきです
「わたしってマゾなのかな」
それはもう衝撃的な発言だったので、ファングは己の耳をうたがった。とっさに返事もできないで、目をおおきくひらいてかたわらのヴァニラを見る。するとおどろくべきことを言った彼女は素知らぬ顔でファングの髪にふれていて、それどころかこころここにあらずといった感じである。ひょっとして、と思う。
「……ヴァニラ?」
「え、なに?」
左耳のうしろあたりの髪をほそく編みこみながら、ヴァニラがひょいと視線をあげる。あった目は、平常どおりにくりっとしていた。どうにもしかねたファングはもの言いたげな視線をおくってみるが、ヴァニラはふしぎそうに見かえすのみだ。どうやら、ひょっとしなくとも無意識のうちの発言だったらしい。
「ファング、うごいちゃだめ」
そのうちよびかけておいてだまるファングにじれたのか、ヴァニラはちいさなこどもに対するような調子で言って、つんつんと髪をひいた。ファングはどうしようかと思ったが、とりあえずやりたいようにさせてやることにする。器用な手つきがファングの髪を編んでいく。ファングの髪にふれることはヴァニラの日常だった、そうするときはいつも上機嫌だった。しかしきょうにかぎっては、時折もの憂げなため息がこぼれるのである。
「はい、できた」
「……あ、おー。あんがと」
いかにして先程の問題発言についてきりだそうかと悩んでいたところで、ヴァニラが満足げに息をついた。それから耳のうしろからたれるほそく編まれた髪をさっきみたいにちょいとひく。彼女のお気にいりのしぐさのひとつだ。
まよいこんだヤシャス山で、しばしの休憩をしているところだった。とはいえ各自が食料調達やあたりの偵察を申し出たので、集合場所ときめたところにはファングとヴァニラしかいない。ふたりの担当はあたりの見回り。それほど危険な魔物は見当たらないと判断してもどってきた彼女らだったが、ふた手にわかれた食料調達班はいまだかえってこない。
ひくい岩壁に背をあずけて、ならんですわりこんでいた。なんとなく、しずかな時がながれる。これがいつまでもつづけばいいのに、とファングのなかにむなしい思いがうかんだ。舌打ちでもしたい気持ちになって、しかし我慢した。なぜなら、にわかに左肩にぬくもりを感じたから。見れば、思ったとおりにヴァニラが頭をのせている。
「つかれたか」
「ううん、そういうわけじゃなくて……。大丈夫」
気にするなと首をふりながらも、ヴァニラはファングにあまえた。慣れ親しんだ家族のぬくもりは、ヴァニラを安心させる。ファングはなにを言うでもなくだきよせるように頭をかかえた。やわらかな前髪がほほにふれる。
この子がこんなに気をぬくのは、ファングにはけっこうひさしく感じられた。ふたりきりになることが意外とすくなかったからか、と考えてすぐに思いなおす。それはすこし正確さにかけた。ファングとふたりになったからではない、ヴァニラはおそらく、ライトニングがいないからこそこんなに安心した顔をするのだ。
(気を、ゆるしてないのか)
どちらの話かは言わずもがな。ライトニングのヴァニラへの態度は目にあまるものがあった。気まぐれなやり方は相手を混乱させるばかりだ。やさしくするのも唐突につめたくするのも、すべてライトニングは自分のためにやっていた。守りたい、なんておおきな口をたたいていたのも完全にやつの自己満足だ。しかもそれを得るためにまわりまで見えなくなっている。おどろくべき結論だ、ライトニングには、いいところがひとつもない。
(……それで、マゾ?)
勘弁していただきたかった。以上の点から導かれる先程のことばの意味はすなわち、そのようなろくでもない人物にヴァニラが、ヴァニラが……。ファングはそのさきを考えることを放棄する。よりにもよって、とはこのことだ。彼女は、みとめたくないだけで本当は前々からしっていた。相手を気にしていたのはライトニングばかりではない、ヴァニラだって、ライトニングの意図をよもうといつも必死になっているようすだったのだ。
「ヴァニラ」
ぽんぽんと頭をなでる。するとヴァニラは、ふしぎそうにファングを見た。気のぬけた顔、きっとライトニングのしらないヴァニラ。ファングは稚拙な優越感にひたりながらヴァニラの前髪をくしゃりとかきまぜる。目はなんとなくあわせられない。
「……あんまり思いいれすぎないほうが、いいんじゃねーか」
言ってから、どういうつもりなのかと自問する。ファングにはひとつの確信があった。ライトニングの大切なもの、それを思ってうかぶのはたったひとつだけだ。彼女が守れなかった、ファングとヴァニラがまきこんでしまった、あの子だけだ。そんなライトニングの目に年下の女の子がどのようにうつっているのか、きくだけ野暮な話だった。だから、やつには期待するなとつたえたかった、あいつが見ているのはおまえじゃないと、ファングは言ってしまいたかったのだ。
にわかに、となりのぬくもりがきえる。はっとしてファングがとなりを見ると、ヴァニラが身をひいてすこし赤い顔をしていた。いやな感じ、と彼女は思う。
「あの…、ひょっとしてわたし、へんなこと言った?」
勘のいいヴァニラなので、現状の把握はすばやかった。ファングのたったひと言で、自分の失態を理解したらしい。ファングは肩をすくめて、あいまいにうなずく。するとヴァニラはさらに赤面し、うつむいてしまった。
「やさしくないのか、あいつは」
「……わかんない」
ほほをそめてかわいい顔をして、ヴァニラはこまった声でつぶやく。ファングはむこうがごまかせる範囲でことばをえらんだつもりだった、しかしファングにはもろもろのことが見とおされていると判断したらしい少女には、その気がないようだ。すなおな気持ちを吐露し、ともすればなきそうなくらいにまゆをさげる。ファングはなんと言っていいものかわからなくなり、そして彼女がこたえを導きだすよりさきにヴァニラのほうがでもねと言う。
「…、つめたかったらやっぱりかなしいし、だからその、マゾっていうのは、たぶんちがうよ。……ちがうと、思いたい」
最後のほうは、自分に言いきかせているようだった。それって結局、つめたいはずなのに気になっていると言っているのとおなじだ、とファングは思う。
「でも、やさしいこともあるの。たぶん、それが……」
ヴァニラは言いかけて、やめた。意味深な横顔は表情をくもらせていた。ファングはぎくりとして、声をかけようと口をひらくがそれよりもさきにヴァニラがふうと息をつく。そして気をとりなおしたように、飴と鞭みたいでなんだかおかしいよね、とファングに笑いかける。
「……」
ファングは一瞬こたえに臆するが、すぐにもちなおして冗談めかした笑みをうかべる。そっとヴァニラのほほにふれて、顔をよせた。
「なんだよ、やさしさだったら、あたしのほうがあまりあるくらいにもってんだろ?」
ぱちんとウィンクまできめてやった。するとヴァニラはまばたきをくりかえし、ややあってからおかしそうに破顔した。ファングはほっとする。やはり、ヴァニラには笑顔がいちばんなのだ。
しかしそう思えたのもつかのまだった。だってついでにだきしめてしまおうと腕をのばしたところで、なにやら思いなおすところのあったらしいヴァニラはかわいらしい表情をすぐにくらくしてしまうのだ。
「うん…そうね。ファングはやさしいよ。すぎるくらい」
そろりとのびてきたてのひらが、ファングの肩をおす。拒絶とはちがう手つき、ファングはしまったと思う。余計なことを言ってしまったと思う。彼女には、そうと裏づけるもうひとつの確信があった。
むかしからかくしごとをするのもうそをつくのも苦手な子だった。そんなヴァニラが、必死になにかをかくしとおそうとしていることが、ファングにわからないはずもなかった。やさしいのはそっちだろ、と彼女は言ってしまいたくなる。だってきっと、そのうそはファングを傷つけないためのものだ。それ以外にヴァニラがうそをつく理由を思いつけず、またそうとなればその秘密の内容も自ずと見えてくる。少女は、やさしいファングに余計なことを言ってくるしめるのもかなしませるのもいやなのだ。
「ヴァニラ」
ちからなくおしかえしてくるてのひらにあらがって、ヴァニラにまた身をよせる。気のよわいヴァニラのことだから、うそをつく自分がやさしくされていいはずがないと、そう思っているのだ。そんなことはないと言いたかった、やさしくするのが当然なほどだった。それでもファングは、彼女のうそを質す勇気もタイミングも、まだつかみかねている。
名をよんでもヴァニラはこたえなかったので、もういちどヴァニラとささやきかけてそっと耳にふれる。この子のちいさな耳がすきだった。むかしから気がむけば指でかたちをなぞってはヴァニラにわずらわしがられた。その延長で、すぐにないてしまうヴァニラをなぐさめるときは、かならず左の耳をなでていた。すると自然に、そうすればおちついてくれるようになった。額に額をよせて、普段のようすからは想像もできないやわらかなしぐさで、ファングはヴァニラをなぐさめる。
「……くすぐったい」
しばらくして、ヴァニラが遠慮がちな声をあげる。すこしだけおかしそうな、うれしそうなその声色はファングをほっとさせた。それでもやめないでいると、ついにヴァニラはくすくすと笑いだす。ファングもふっと笑って、こんどこそおおいかぶさるようにしてだきしめた。
「ファング、おもい」
「おもくない」
おもい、おもくない、とそれからもなんどもふざけて言いあって笑いあって、とうとうおしたおしかけたところだった。どん、と物騒な音がして、思わずファングが顔をあげるとライトニングがいた。
「……あつくるしい」
たたずむ彼女は普段どおりのひえた瞳でふたりを見おろし、ひと言のこしてさっていった。するとその背後にいたサッズが、あいかわらずなかがよすぎるなあおまえらは、となれた顔でふたりをながめてから足元のものをひろいあげる。本日の収穫であるところの魔物だった。まがまがしい顔をしたそれはすっかりうごかなくなっていて、それでもぎょろりと剥いた目でこちらを見ているようだった。どうやら先程のどんという音はライトニングがそれを地面におとしたときのものらしい。ひょっとしたら、たたきつけたのかもしれないが。
「スノウとホープは?」
「まだもどってきてねーよ」
ヴァニラに密着したままのファングがこたえると、サッズはなんとも言えない顔をしてライトニングのあるいていったほうへと視線をながす。
「おまえらはな、その、あつくるしいらしいから。節度というものをもちなさい」
説教じみた口調で言ってから、仲間内のとうちゃんを自認する彼はさっさとあるきだす。ファングは一瞬だけぎくりとしたが、サッズは単にライトニングのことばをそのままうけとめただけだろうと思いなおす。あつくるしいと彼女は言ったが、彼女の先程の高圧的な態度はそれだけが原因ではないにきまっている。
「おこられちゃったね」
「な」
ずるずるとファングのしたのほうからはいだしながら、ヴァニラがのんきなことを言う。それが本当にのんきだったから、ファングはすこしだけつまらないと思った。気になる相手がいたとして、ふつうならそいつにさっきのように他人と密着しているところを見られたなら動揺したっていいはずだ。しかしヴァニラは全然平気な顔で、それはつまりファングとのたわむれにはなんのやましさもないということにちがいがなかった。ちなみに、ヴァニラにとってライトニングが気になる相手ではないのではないか、という線はありえない。
(……いま、どんな顔してんだろう)
だって、ヴァニラはぼんやりと、彼女のさっていった方向をながめているのだ。ファングの位置からは表情が見えなくて、じれったくてしかたがない。それは簡単にのぞきこんでしまえるのに、ファングはじっと、ヴァニラの耳の裏側を見つめるばかりだった。