わずかなすきまからのぞいたさきは暗闇だった。閉塞的な空間。異様なほどずしりとしたドアが桃香のうでをおしかえすが、かまわずあけきった。ろうかからのひかりが室内にしみこむ。それでもなにも見えない。まるで夜だった。

「……先生、おる?」

 ねんのための確認だ。返事などない。桃香はかすかに息をのんで一歩あしをふみいれる。ぞくりとした。空気がひやりとはだにふれて、まるで地下室みたいだな、と思った。ゆっくりすすんで見まわした。すこし目がなれてくれば、ぼやけた輪郭がうかんでくる。四方はかべだ。天井ばかりがたかく、まどはない。暗闇と閉塞感の原因はそれか。
 趣味のわるいへやだと思った。やつはいつもこんなところにこもっているのか。ふと、ろうかからのひかりのすじのさきにつくえを見つけた。ちらかった机上。とりつけられた本棚には分厚い書物が何冊か乱雑にさしこまれ、そのよこにはいまにもくずれそうな紙のたばがうずたかくつまれていた。あしもとを見おろせば、数枚の白い紙がゆかに無造作にちらばっている。意外だった。几帳面で潔癖そうな顔をしているくせにあまりに粗雑だ。へやにはいるなと言っていたのはこれをかくすためか。そんなまさか。
 ちらばる紙をふまないようにしてつくえにちかづく。すると茶色のひろいつくえの真ん中にひらかれた帳面を見つけた。そのとなりにはインクのつぼとペンがころがっている。ひかりが自分のからだでさえぎられないようにしながらのぞきこんだ。日付が見える。ぎくりとした。日記かなにかだろうか。

(さすがに、これは)

 プライバシーの侵害は桃香の本意ではない。他人のへやへの無断侵入がすでにそれにあたるということはこのさい目をつむっていただきたい。興味がないといえばおおきなうそになってしまうが理性に歯止めされて視線をそらしかけた。しかしそれよりさきに、おかしなことに気づいた。

「……なんじゃこれ」

 日付につづいてならんでいるのは、文字ではなかった。記号のようなものの羅列。古代文字かなにかのようにも見える。ただそのふたつだけが、何行にも何頁にもわたって書かれているのだ。日記なんかじゃない、と直感的に思った。思わず手にとってつかいこまれたようすの帳面をぱらぱらとめくるが、いっこうに日付以外に桃香が理解可能な記述はみあたらない。さいしょの頁から、いちばんあたらしい頁にもどる。そこでふと見えた。最新の日付は、きのう。

(きのう?)

 ぴん、となにかがつながった、気がした。

「なにしてんのかなキミは」
「はっ……」

 夢中になっていたところで、予期せぬ後方からの刺激である。思わずもっていたなぞの帳面をつくえにたたきつけてしまった。その拍子につまれていた紙がばさばさとゆかにおちる。きわめつけにぶあつい本まで一冊落下。がつん、といういやになるくらいおおきな音がひびいてから室内はしんとしずまった。

「……」

 ゆっくりとふりかえった。なぜこいつには気配がないのか。桃香はいつぞやのようにへやのいりぐちのすぐそばのかべによりかかっている雉宮牧師に気まずい視線をおくった。

「……きゅっ、救急箱をさがしに」

 うそではない。しかしほんとうでもない。牧師の表情は、くらがりで見えない。顔のない牧師と見つめあう。正確にはおそらくつめたくしずんでいるであろうにらみを見かえす。ここで目をそらしてはまけだ。なんの勝負かは桃香自身もしらない。

「なにか見た?」

 しかし勝負の決着はあっさりとついてしまう。牧師のことばに桃香はぎくりとかたをゆらしてから視線をそらした。ついでに冷や汗もたれた。すると牧師がふんと笑う。

「そこはくびふっとけばいいんだよ。ばか正直だな」

 桃香にあゆみよる。そして緊張している彼女を尻目に、牧師はわきをとおりぬけてつくえのうえにつりさげられたランプに火をいれた。ふっと室内にひかりがこぼれる。

「……おこらんのですか」

 ちらばった紙をひろいはじめた牧師に言った。てつだうべきなのかまよった。かなりの量の紙のたばがそろえられてつくえのうえにもどっていく。どれにもびっしりと文字をかたどるインクがしみこませてあった。

「キミならいつかやりかねないと思ってたからね」
「……」
「なんかへんだと思ってんでしょ? 私のことも、犬神サンのことも」

 しあげとばかりにどんとおおきな音をたてて、分厚い例の本がもとの位置になおされる。

「けがでもしたの?」
「え」
「救急箱」

 そこでやっと親指の鈍痛を思いだす。思いだしたとたんすっかり息をひそめていたいたみがずきずきと自己主張をはじめるのだから人間の感覚というやつも信用できない。思わず右手を左手でおおった。

「包帯とかなら、キッチンのたなの、たしかうえから二番目のとこにあったと思うんだけど」
「あ、ほんまですか。見つからんで」

 すんません。言いのこしてにげることにした。しかし牧師の手が桃香の手をとって阻止される。ちなみに彼女がにぎったのはちょうど桃香の傷口である。ぐっとちからがこめられた。

「いっ…」

 反射的に牧師をにらむと、いつもどおりのすました顔があった。

「包帯ならこのへやにもある」
「え…」
「自分じゃうまくできないでしょ?」

 つまり、手当てしてやる、ということか。まっさきに思いついた意訳。しかし一瞬後にはそんなまさかと思った。そのときの自分がどんな顔をしていたかはわからないが、キミはひとのことなんだと思ってんの、と牧師にあきれ半分不服半分の声で言われるくらいにはおどろいていたらしかった。ぱっと手をはなされて、くいとゆびでしめされた。その方向にベッドを認めているうちに、牧師がつくえのひきだしからちいさな箱をとりだす。

「すわってよそこ」
「や、でも、それほどのきずでもないし」
「ちいさなきずなめてたらいたい目見るんだよ。破傷風にでもらなれちゃこっちが迷惑するし」

 謙遜したところで、おまえ自身の心配はしていないとあんにくぎをさされる。思わずむっとして、そのいきおいのままベッドにこしかけてしまった。そういえば、ベッドがあるということは牧師はやはりこの息苦しいへやでねているのか。神経がうたがわれた。
 牧師がとなりにこしをおろして桃香の手をとった。消毒液がひやりとふれて、白いおびが器用に親指にからみつく。あまりにやわらかいふれ方だから狼狽した。手元を見おろす牧師の顔をうかがう。しずかな目元だ。とうとつに初対面のときの牧師を思いだす。やわらかくひろがる表情。あのにせものの愛想笑いは、それでも印象深かった。

(あれがつよすぎて)

 だから、こんなにもいちいち過剰反応してしまうのかもしれない。牧師のつめたい顔に。うそでもいいから、ちゃんと笑っていればいいのだ。そんなことをかんがえてからばからしいと思った。とたん、牧師の視線がうえをむく。つまり目があう。みょうなことをかんがえていたせいでぎくりとした。

「犬神サンとは」

 そのつぎは、でてきたなまえにどきりとした。

「学生のときのしりあいだとか」
「え…はあ、まあ」
「彼女は、そのころどんなだった?」
「どんなって……」

 質問の趣旨が見えない。こたえによどんでいると、牧師がベッドからこしをあげる。そのまま例のつくえのまえにおかれたいすにこしかけて、さきほど桃香が盗み見た帳面をしずかにとじる。手元を見ると、治療はすっかりおえていた。

「……気になるんですか?」
「それなりにね」

 それ以外はずっといっしょにいるから、私がしらないのはそのあいだだけだもの。とじた帳面を本棚にもどしたあと、牧師はそのとなりにあったかたい表紙の本をとりだした。

「彼女、なんでここにいるんだろうね」

 紙のうえにならぶ字の連続に目線をすべらせながら牧師がつぶやく。あいかわらず話の趣旨が見えず、また意味不明だった。五十鈴がここにいる理由。そんなものをもとめる必要があるのだろうか。

「……なんでもなにも、すきでおるんとちがうんか」

 あんたのことがすきでおるんとちがうんか。そう言いそうになってやめた。無意識のうちにいだいていた疑念が勝手に顔をだした。くだらない思考だ。顔をしかめてから牧師を見ると、彼女も紙上から顔をあげて桃香を見る。学生してる犬神サン、ちょっと見てみたいな。牧師が無表情のままつぶやく。

「犬神サンはさ、ただ、私に負い目があるだけなんだよね」

 一瞬ことばの意味がわからなくてまばたきをした。負い目。くちにだして反復したら、牧師がふんと笑う。

「犬神サンはまじめだから。私はどうでもいいって言ってんのにね」
「……先生がなにゆうとるかわからん」
「ま、そうだろうね」

 牧師がかたをすくめてからこめかみにゆびさきをあてながらつくえにひじをついた。とにかくさ、とささやく。

「私と犬神サンはなんでもないし」

 安心していいよ、と、そっけなく言われる。桃香は数瞬発言の意味が理解できず、しかしすぐにかっと体温があがった。思わずベッドからたちあがる。

「ウチは、べつに」

 おおきな声がでた。こんなことじゃなにかあると言っているようなものだ。後悔するが早いか、その証拠に牧師がにやりと口角をあげた。ああごめん、とくちさきだけの謝罪をのべる。

「べつに、ふかい意味はなかったつもりなんだけど。ほんとばか正直なんだねキミは」

 かっわいい。きっとまっ赤になっている顔をゆびさされた。また体温があがる。こんどの原因はさきほどとはべつだ。

「……あんた、ほんまええ性格しとるわ」
「ほめことばとしてとらえとくよ。そんなことよりさ」

 牧師が書物に目をおとしなおしてつぶやく。それから、しっしと手をふった。

「いつまでここにいる気なのかな。じゃまなんだけどね」
「じゃ…」

 ひく、とくちびるのはしが痙攣した。ひきとめたのはそっちで、五十鈴の話をふってきたのもそっちだ。それを、なんだって? ひだりのこぶしが反射的にふるえた。こんな陰気くさいへや、こっちこそおりたないんじゃこの陰性植物が。精一杯の皮肉を、くちにだすことはできないからせめてこころのなかでさけぶ。ききたいことはまだあるはずだったが、もうそれどころじゃない。足音をあらげて出口にむかった。この時点で、桃香は自分が牧師のへやに勝手にはいったという弱みがあることをすっかり忘却していた。

「キミさ」

 すると後方から声。まだなにかあるのか。じゃまだと言ったくせにこんどはよびとめる牧師を、桃香はにらむいきおいでふりかえる。すると牧師は顔をこちらにむけていた。すこしまじめな表情にめんくらう。

「キミ、このへやにはいってなんともなかった?」
「……? べつに、なんとも。ただ、ちょおはだざむい気がせんでもなかったけど」
「……そう」

 質問の意図はあかさぬまま、牧師はまた書物にむきなおる。なんなんだ、と思いつつ桃香はへやをでてドアをしめた。そこで気づく。

「……」

 あのへやは、はだざむいどころじゃない、ぞくりとするほどつめたかったのだ。常温のはずのろうかが、むっとあつく感じるほどに。
 
07.11.18