(なんや、うまいことごまかされた気がする)

 雉宮牧師の策略にすっかりはまってしまったことに桃香が気づいたのは翌日の朝日をおがんでからだった。きのうは、もしかしたらかねてからのおおくの疑念をはらすチャンスだったのかもしれない。それだというのに牧師の意味不明な発言によってなぞがふえたばかりか、そのうちのひとつだってききだず間もなく挑発にのせられてまんまとへやからとびだしたわけである。

(……あのへや)

 あとにしてから気づいた。思いだすと気持ちわるくなった。ふつうじゃなかった。奇妙だった、気がする。平気そうな顔をした牧師は、いつもあのへやのなかにいるのだ。しかしたしかに、くらすぎるということ以外はなんともない、ふつうのへやだったのだ。もしかしたら、自分がふつうじゃないのだろうか。ベッドのうえですこしねぼけたままの頭をてのひらでなでてからのぞいたまどのそとは、うらはらにいつもどおりの晴天だった。
 こんこん、とノックの音。ドアのほうを見ると、桃香さん、と自分をよぶ声がした。

「どうぞ、あいとる」

 どうにも秘密主義者のおおいこの家では自室に鍵をかけるのが常識である。しかし桃香は、せっかくもらった鍵をいまだに活用したことがなかった。このへやには、ひとに見られてこまるものなどないのだ。……あのふたりとちがって。
 がちゃと音をたててとびらがひらく。五十鈴が顔をだした。

「おはようございます」
「はよー」
「すみません、こんなはやくに」

 シーツからぬけだしてベッドのはしにこしかけた。それからひとつのびをする。

「や、おきとったけん。大丈夫。どしたん?」
「はい、あの、きょうは買いだしにいく日だってきのう言いわすれてしまって」

 月にいちどほど、五十鈴は汽車にのってすこしおおきな町へいく。このちいさな村では手にはいらない調味料の類やちょっとした薬の調達と、彼女の手作りした小物を牧師の父上の生前のしりあいが経営しているらしい店においてもらいにいくのが目的である。わずかな収入源のひとつだ。

「それで、もうでなくちゃいけなくて」

 へやのかべにかかるおおきな時計を見た。あとすこしで6時。ここから最寄の駅まで走っているバスは、早朝と夕方の一本ずつしかない。彼女、なんでここにいるんだろうね。ふと、牧師のことばを思いだす。たしかに、わざわざここからはなれて学校をでたくせに、どうしてまたこんな不便なところにもどってきたのだろう。それから、負い目があるとか、なんとか。

(……ふたりは、なんでもないとか、なんとか)

 きのうの牧師との会話を反芻する。五十鈴についての話。牧師に負い目があるから、だから彼女はここにいる。にわかにはしんじられない。なんとなく、五十鈴らしくない気がした。でもどうだろう、自分は、五十鈴のなにを知っているんだろう。

「わんこ」
「はい?」

 思わずなまえをよんでしまった。なにを言う気なんだ。きょとんとする五十鈴を見つめて、しかしすぐに目をそらした。

「……や、なんでも。そんじゃ、7時なったら先生よびにいけばええんじゃろ」
「はい、よろしくおねがいします。朝食は、つくってあるので」

 それじゃ、いってきます。ぺこりと頭をさげてから、五十鈴はドアをしめた。かち、と時計の針がうごく。もうすこしだけねなおそうかと思ってベッドにせなかをなげたが、けっきょくすぐに時間になってしまった。

「――先生」

 きがえをすませてキッチンのテーブルのうえを確認してから牧師のへやのまえにたつ。ノックをしてからなまえをよんだ。数秒してから物音がして、ドアがひらかれる。

「……あれ、犬神サンじゃない」
「おはよーございます」

 うす目の牧師になげやりなあいさつをする。これはふだん五十鈴の仕事だ。

「きょうは買いだしの日やって」
「ああ…そっか」

 ねぼけた顔で牧師はあくびをかみころす。雉宮牧師は朝によわい。そのわりにノックの音だけでおきるのだからよくわからない。五十鈴いわく、目をさましてから意識を覚醒させるまでに時間がかかるとか。朝食の準備できとります。桃香はそう言いのこして、牧師をおいたままキッチンへもどる。

「……」

 そのせなかを、牧師はうす目のままながめた。




 牧師とふたりきりの食事はしずかすぎて気まずい。牧師は桃香のまえでは基本的に自分から話題を提供したりはしないし、桃香だって彼女に話しかける気はない。すこし水をむけてやれば、知識をひけらかすがごとくよくわからない論述をならべはじめてくれるが、牧師の話すことはだいたいにおいて桃香の興味の範囲外なのだ。それをかんがえると、五十鈴と桃香が話しているところに牧師がえらそうなちゃちゃをいれてちょっとした口論になる、というふだんの食事中の風景はそれなりの団欒なのかもしれない。

「先生」

 たべおわったところで、目前にすわる人物を見た。それじゃあ、きょうはふたりでも団欒できるようになろう、などと思ったわけではない。桃香には、きくべきことがあった。牧師の視線が桃香にむかう。

「わんこの負い目て、なんなんですか?」

 目を見てたずねた。しばらく牧師は無表情で桃香を見かえし、それからくちびるのはしをもちあげる。

「ずいぶんと急な質問だね」
「きのうきょうの話じゃろ、むしろ自然なながれや思うけど」
「犬神サンの話は、私がすることじゃない」
「……それもそうじゃ。ほんなら、質問かえます。あんた、たまにおらんくなるじゃろ。あれ、どこいっとるんですか」
「……」

 牧師がテーブルにほおづえをつく。こたえる気はない、といった表情。五十鈴がかくしたがっていることを彼女の留守中にさぐるのはすこしずるい気がしたが、もうなりふりかまっていられない。牧師の秘密だけじゃない、五十鈴自身のなぞだってある。正直言って、がまんの限界だ。

「あの、へんな日記みたいなんと関係あるんですか」
「……ふうん…。見るとこ見てんだね」

 牧師のほおづえがくずれて、かわりにうでがくまれた。くだんの帳面に書かれたいちばんあたらしい日付はおととい。そして、牧師が昼間にすがたをけしていたのも、おとといだった。ただの偶然かもしれなかった、しかしなんとなくそうではない気がした。事実、牧師の表情がかわった。

「なんなん? あの、へんな字みたいなん」
「しりたい?」

 思わせぶりなことばにすなおにうなずいた。すると牧師がたちあがる。

「きなよ。おしえてあげる」
「……い。ええんですか」
「いいって言ってるでしょ? はは、犬神サンにおこられちゃうなあ」

 冗談めかした口調で言って、牧師は彼女の自室がある方向にあごをしゃくった。あまりにあっさりうまくいった。桃香は一瞬よろこびにこぶしをにぎったが、こんなかんたんでいいのだろうかとすぐに不安にかられた。さっさとあるきだした牧師をおいかけながら、桃香はもしかしたらあともどりできないのかもしれない、となんとなく思った。
 
07.11.19