ドアはあっさりとひらくのだ。二度目の訪問は桃香のあしをすくめさせたが、牧師の挑発的な表情がそれをあとおしした。雉宮牧師がおおきくひらいたドアのさきの秘密。あいかわらずちらかったゆかのうえを躊躇なくあるく牧師のあとに、桃香は白い紙をよけながらつづいた。やはりさむざむしい空気があって、桃香のこまくのおくを刺激した。それでも、思っていたよりはおかしくない。印象が記憶を過剰にしただけだ、きっと。桃香はそう思いこんだ。
 ランプに火がともり、牧師の手のなかに赤白いひかりがうかんだ。二歩分ほどはなれた位置にいる牧師の表情がそれにてらされた。奇妙だと思う。牧師はまるで、自分にすべてをあかしたいかのような目をしているのだ。

「牧師の仕事ってさ」

 とうとつに言った。はっとしていると牧師がランプを机上におきなおす。そのとなりには、まるでもうしあわせたかのように一冊の帳面が鎮座していた。ちかよってのぞきこむ。あいかわらずのふしぎな文字がならんでいた。

「村人たちの、よき理解者、指導者であることだってまえに言ったと思うけど。もうひとつあるんだよね」
「もうひとつ?」

 オウムがえしをし、顔をあげると目があった。これがいちばん重要なんだ。牧師がささやく。

「……危険を、とりのぞくことさ。この村からね」

 声色は、真剣なのかふざけているのか分別がつかぬほどききおぼえのないものだった。牧師は再度ランプを手にとり、より見やすいように白い帳面にかざす。白が橙にそまった。

「これはね、天使さまのつかう文字だって言われてる。天使ラジエルが人類の祖アダムにわたした書物につかわれてた秘密文字だってね」
「天使……」

 紙上でおどる見たことのない文字。天使の文字。べつにそれで書く意味はないんだけど、ちょっとね。趣味みたいなもん。のぞきこむ桃香の頭上から声がふる。

「いまでも魔術や錬金術にもちいられてるとか」
「……うそくさ」
「まあね。私だってしんじてないよ」

 意外なことば。違和感に顔をあげた。神をしんじるものが、天使の文字だと言われているものを信用していない。ちらちらとゆれるランプのむこう側で、牧師のひとみのなかもゆれる。

「ぜんぶ、私の父親が言ってたことだもの」
「……先生の、父親」
「すきじゃなかったんだ。私になにもおしえないまましんじゃってね、おかげで、ここにあるあのひとがのこした資料を解読する準備にかなりてまどっちゃって」

 数年かけてやっと、この言語の文法とかが理解できてきてさ。牧師が、ランプをかかげた。ぼお、とひろい範囲にひかりがゆきとどく。ランプでしめされたほうを見て気づいた。

「げ……」

 ぼやけたかげのなかにうかぶのはかべなんかじゃない、四方すべて、無数いや無限のかたい背表紙にかこまれているのだ。天井までずっと、かべのかわりに書棚がのびているのだ。すきまなく書物をかかえこんだ、書棚が。息をのんだ。

「先生が、いっつもこここもっとるんは、これを……」

 ここにある本を解読とかなんとか、さきほど牧師は言っていた。まさかここにあるすべての本が、あの、解読不能と思われる天使の文字とやらで書かれているのか。おぞけがした。

「私の父親はさ、民俗学者だったんだよね」
「学者? 牧師やなくて?」
「牧師はべつに世襲制じゃないし」

 はっと思いだした。まえにかすかにきいた、牧師と五十鈴の父親の話。五十鈴のくちぶりから勝手に牧師の父親もまた牧師であり、牧師につかえる五十鈴の父親もまたその先代の牧師につかえていたのだと思いこんでいた。よくよく思いだせば、五十鈴はそんなことは一言だって言っていない。

「……でも私は、まえの牧師先生こそ、ほんとの父親だと思ってるから」

 記憶をたどっていたところで、牧師らしからぬもろい声が言った。思わずおどろいていると、一瞬後には失言に気づいたらしい牧師が顔をしかめる。それからとりなおすようにふんとはなをならした。

「それで、その学者はね、世界各地の伝承だなんだをしらべてあるいてて、そのうちに人間じゃないものに夢中になっちゃってね。食人鬼ってのかな。例えば、……吸血鬼とかね」

 ふだんの口調でゆっくりとことばをつむぐ。ふいにつながった。牧師の仕事は危険をとりのぞくことであり、その牧師があけくれているのは吸血鬼とやらの子細が記録されているであろう資料の解読である。まるでうそのような話だと思った。
 たった推測をいぶかしんでいるうちに、牧師がつくえのとなりのクローゼットをあけた。

「しらべられるだけしらべつくして、それでわかったことがあるんだってさ。やつらにいちばんきくやり方。……」

 そしてとりだされたのは、ほそながくおもくるしい物体。黒くおぞましくもあった。いやな予感に背筋がこおる。

「……猟銃」
「正解。ねえ、おぼえてる? だれのへやにもはいっちゃいけないって、それがみんなのためだって言ったの」

 銃口が桃香にむけられる。がちゃりという耳ざわりな音。ほんものだと直感的に思った。ひやあせすらもかわく。

「だれにも、しられちゃだめだったんだ。やってることって、結局ころしだしね」
「せんせ」
「理由もしらないでころされるのなんて、いやだろうと思ってさ」

 桃香の声をさえぎって、牧師が一歩、あゆみよる。銃口がひたいにふれる。うごけない。ただ、身がぎっとかたくなる。色のないふたつの穴が、桃香を見つめた。

「さよなら」
 
07.12.02