このへやは苦手だ。ぼんやりと雉宮牧師の気配がしみついているのだ。かりに彼女が不在だったとしても、ここにはあたかも自分以外にもうひとり、このへやの主が存在しているように感じざるをえない。どうしてそうなってしまったのか、いつからそうなってしまったのか。五十鈴は思いだそうとしてやめた。これは彼女にとっての鬼門だ。
「こまったもんだよね、あのひとにも」
「……ごめんなさい」
「こっちきなよ、ねえ」
声が手まねく。五十鈴はうすぐらいへやのドアのまえから、牧師のそばにちかづく。牧師の表情がうかがえる距離までよってたちどまる。いすにこしかけあしをくんだすがたはいつもどおりなのに、気配のうしろには確実に激情があった。牧師はおそらく、いま本気でおこっている。いやおこっているというよりは、いらだっている。
「ごめんね、おこってるでしょ」
「……そんなこと」
おこってるのは牧師だ。思ってもそんなことは言えない。五十鈴は目をふせた。
「でも、……どうしてですか」
「彼女がしりたがったから。だからおしえてあげたんだけどね」
「……」
こわかった。おこった牧師への接し方を、五十鈴はいまだ会得していなかった。自業自得だ、と思う。彼女がいらだつ原因をつきつめれば、そこには自分がいるのだ。
「…ね、キミも、やきがまわっちゃったよね」
「先生……」
「こんなことならさっさと」
「先生!」
しまったと思った。選択をまちがえた。いやちがう、まちがえざるをえなかったのだ。思わず声をはってしまった動揺をごまかそうとくちもとを右手でおおった。なにもかくせないのに。
「……そんなこと、それだけは、やめてください、そんな、そんなこと、言うの……」
まずい。こんなこと言ったってだめだ。こんなことを言ったって。犬神サン、と牧師がよぶ。瞬間、がちゃ、と背後から音がした。ありえないことだった。だってここには、自分と牧師しかいない。反射的にふりかえる。あるのはとざされた木製の扉。それから、ぱたぱたとはなれていく気配。血の気がひいた。絶望というのは、もしかしたらこういう感覚なのかもしれないと思った。
「……きかれちゃった、かな」
みじんの動揺もうかがえない声。五十鈴ばかりが心臓をならした。大丈夫だよ、そんなたいした話はしてなかったでしょ?牧師の声がとおい。さあ、と耳のおくで血のながれる音がする。犬神サン。もういちどよばれた。こんどはちかい。気づけば、すぐ目のまえに牧師がたっていた。
「ほんとにキミは」
牧師はそう言いかけてから笑った。五十鈴はうつむく。ずるいと思った。彼女の顔は、いつだってほんものじゃない。いつの間にかくちもとからもものよこへ移動していた右手に、牧師のてのひらがふれた。うつむく表情をのぞきこまれて、一瞬だけ思いだす。
「くせ、なおらないね」
色あせた思い出。色をはいだのは自分だ。ゆっくりともちあげられた五十鈴の右手は、かたくにぎられてふるえていた。それをとくように牧師がゆびをなでる。
「むかしから、緊張したときとかさ、こうやってちからいっぱい手にぎっちゃうの。あぶないから、血がでちゃうからやめたほうがいいって、なんども言ったよ」
白黒の映像がよみがえりかける。五十鈴はそれを放棄する。思い出はそれ以上のものじゃない。なつかしむことも、きっといまの自分にはむかない。
「そんな顔しないでよ、犬神サンがそんなだと、私こまっちゃうんだよ」
そんな顔、がどんな顔かはわからない。それでも、目を見つめられてのこうをやわくなでられて、五十鈴はふるえた。原因は不明だ。
「……ごめんなさい」
なんとかそれだけ言ったら、解放された。あっさりとした乖離はわずかに寂寥をのこす。すくえない、と思った。自分自身が。
「安心していいよ、いまはまだ、だれもころさないよ。あれの世話は、キミにまかせるから」
もういっていいよ。牧師が温度のない声で言って、五十鈴からはなれた。まるでなにごとにも興味がないような視線が、五十鈴からはなれた。しつれいします。すでにランプをかざしてならぶ背表紙にゆびをすべらせている牧師のせなかに頭をさげて、五十鈴はにげるように扉をくぐった。
「……」
極力音をたてないでしめたドアにもたれる。こまっちゃうんだよ。憂いをおびたひびき。
(……うそばっかり)
うつむきかげんの表情がゆがむのを自覚した。これがかなしみのせいなのかいらだちのせいなのか、もしくはその他の感情のせいなのか。見当もつかない。ただくちびるをかんで、ふるえる目元がこわかった。そんなうそ、つかなくてもいい。彼女は自分に、なにもしなくていいのに。
「いまは、だれも……」
牧師のさいごのことば。おもいおもいことばだ。五十鈴のゆびがゆれる。この手をにぎることすら禁じられた彼女は、たった一滴だけなみだをながしてたえるほかなかった。