「こんなことならさっさと」

 おだやかにつめたくつづきかけたつぶやきは、につかわしさとはほどとおいおもたいさけびにさえぎられた。何度もおなじ夢をみる。

「……ねえ、どうしたの。顔色わるいよ」

 おさないよびかけが自分になげられている。顔をあげると見なれた視界。自室の風景。そのまんなかに、見なれぬ人物。おさない声の主がいる。ふしぎそうな顔で、こちらのことなど本当はどうでもいいだろうに、少女は首をかしげているのだ。間をおかずに背後のドアをノックする音。あわててひらけば、五十鈴がいるのだ。

(またおなじ夢)

 早朝。あしたは雨かな、という牧師のつぶやきを思いだした。そとはしとしととかなしげな音をたててしめっぽい空気をつくっていた。雨の日はあまりすきじゃない。
 未知がここにきた日のことだ。自分のへやに少女をやすませて、五十鈴をよびに彼女のへやをおとずれてみたものの不在だった。そこでとりあえずはあきらめればよかったのだ。しかし、雉宮牧師のへやから話し声がきこえてしまったのだからしかたがない。桃香はなにもかんがえずにおもたげなとびらにちかづいた。ひそめられたふたつの声はよくききとれない。話のじゃまになるかと思ったが、場合をかんがえると平穏な話しあいではないだろうと推測して、わざとそれをさまたげるつもりでノックの手をのばす。瞬間室内からひびいたのはよわよわしいさけび声。一瞬だれのものかわからなかった。彼女があんなおおきな声をだすのをはじめてきいた。牧師を悲痛のさけびでよぶ、五十鈴の声。桃香は思わず手をひっこめてとびらに耳をおしあてた。
 しん、としずまりかえった木の板のむこう側。息をのんでいると、五十鈴のものではない声がした。やさしい声。発音はききとれない。ただひびきだけがとどく。雉宮牧師のものだという憶測はかんたんにできたのにしんじられなかった。森のなかできいたあらあらしい非難よりもショックだった。あのときあのむこうには、桃香のしらない空間があった。

(あそこで、ドアノブに手ひっかけんとけば)

 がちゃ、といやになるほどおおきくひびいたそれは、なかの空気を一変させた。思わずにげたが、ぬすみぎきは確実に彼女らに認知された。あれはきっときいてはだめだった。桃香はなきたくなる。自分は、五十鈴をまるであばいているのだ。
 おきぬけの顔をぽんとはたいてからベッドからぬけだす。服を寝間着からきがえてさっさとへやをでるとろうかで未知とばったりでくわした。おはよう、とねむそうな声がきこえてそれに返事をするまえに少女はてくてくとあるいていった。未知がかわいらしいのはねおきだけだ、と桃香はひそかに思っている。キッチンへむかうせなかをゆっくりおいかけると間をおかずおいついた。おはようを言いなおすと、未知がこくと首肯した。それからひとつあくびをして、雨やだな、とつぶやく。

「せんせいが雨って言ったらほんとに雨だよね」

 あいかわらずさめきっていない未知が感情の読めない声で言う。雉宮牧師には天気を言いあてる才があるらしかった。彼女があしたは雨だと言えば翌日の朝のいちばんはじめにきく音は雨が窓をたたく音だった。

「雨女だね、雨女」

 陰気な単語をだして未知がくちびるをとがらせる。この少女も桃香同様、雨があまり得意でない。

「べつに先生がふらしとるんとはちがう思うけど」
「でもさー。あやしいよ、ふるって言ったらふるじゃん」
「そら、あれじゃろ。先生お得意の科学的根拠っちゅうやつ」

 でも100パーセントだよあやしいよそんだけすごいんじゃろ科学っちゅうんは。中身のない言いあいをしているとすぐにキッチンにたどりつく。そこにはもう五十鈴がいて朝食の準備がととのっている。ただしテーブルのうえにならぶのは三人分だ。おはよう、とふたりが声をあわせるとおはようございますとやさしいあいさつがかえってきた。

「おー。めだまやき」
「さきに顔あらうんだよ桃香ちゃん」
「わかっとるわい」

 こども相手にむきになると、背後で五十鈴に笑われた。桃香はくやしまぎれに未知をおしやって洗面台へむかった。あっずるいあたしがさき、ウチじゃあこんちび。けっきょくおとなげなく本気になっているとこんどは五十鈴に姉妹みたいですねと言われる。思わず未知と顔をあわせて、それから未知がはあとため息をつくものだからゆびさきでおでこをたたくとすねをけられた。やはりこのこどもはかわいげがない。

「くそ、朝からなにしとんじゃウチは」
「あたしはたのしかったよ」
「……」

 ことばのとおり鼻歌までそえてたのしげに食卓につく未知を尻目に、桃香はちらと卓上を見おろす。三人分。桃香と未知と五十鈴のぶん。そこでちょうど、もうひとり分をおくのへやにはこびおえた五十鈴がかえってきた。思わず彼女をじっと見ると、それに気づいた五十鈴が気まずげに笑う。雉宮牧師は未知と食事をとろうとしなかった。
 ごめんなさい、と、一度だけ未知がつぶやいたことがあった。それはあまりに不似合いでまちがいだった。それなのに桃香も五十鈴もなにも言えずに、その日もいつもどおりに三人で食事をおえた。
 いただきます、と三人そろって手をあわせる。あかるいふりをした食卓は、雨の音のなかにある。
 
08.08.08