薄暗いオペレーション室、部活が終了したあとのここはものしずかですこし不気味だ。ジェニーはそんなことは気にもとめずに、光をうかびあがらせたコンピュータにむかっていた。ふと、背後のドアがひらく音。

「……あら」

 反射的に椅子ごとふりかえれば、思いがけぬ人物がいた。まだのこってたの。そう声をかけると、リンは肩をすくめるようにしてから先輩こそとぼそりと言った。

「ああ、オデット二世の研究? 例の資料は役立ってる?」
「はあ」

 入り口のところにたったままの彼女は、気のない返事をしてばかりだ。こちらに近づこうとする気配もなく、とくに話をしようとするでもない。リンはかんがえの読めぬ無表情でジェニーのことを見ていた。こちらから話題をふろうかと一瞬かんがえたが、思えばとりわけ話すことなどない。ジェニーはかるく息をついてから、コンピュータにむきなおった。

「なにやってるんですか?」

 途端話しかけてくるものだから、拍子がぬけた。こんどのジェニーはふりかえることはなかった。

「ん? ちょっとね、みんなのディンギーのシミュレーションのスコアのチェック」
「ふうん、それも副部長の仕事ですか。わざわざ居残りまでして」
「そうじゃないことはないけど、まあ私がしたいからやってるだけね」

 そうそうに話題はとぎれた。手をうごかしながらも、ジェニーはしずかな背後を気にせずにはいられない。どうにもつかめぬ後輩だ。先日の一件ではおなじヨット部の仲間としての今後の活動に支障がでるのではないかと思えるほどの険悪さをぶつけられたものだが、翌日にはけろりとした顔でジェニーの小言をきいていた彼女である。とはいえ、ききながされていた感はいなめないわけではあるが。

「あ、それ」

 などと、かんがえごとをして油断していたのがわるかった。唐突に右側から視界に侵入してきただれかの手。完全に意表をつかれたジェニーははじかれるように顔をあげる。するとそこにいるのはもちろん、リンだった。

「……」
「あ、すみません。おどろかせちゃった?」

 わるびれるどころかにやにやとした口元をかくそうともせず、彼女はわざわざジェニーの視界の機能していない側にたってキーボードに手をのばしていた。

「……いえ、大丈夫」
「そうですか」

 リンはあいかわらずいたずらの成功したこどもの顔をして、ジェニーの目下にある手をぷらぷらさせた。この位置ならばさすがに見えないはずはない。完全にあそばれているようだ。いい気分はしなかったが、たわむれをけしかけてくる程度にはうちとけあう余地をのこしてくれていると思えば些末なことだ。

「で、それってどれ?」
「ああ、はい。これもっと見やすくできますけど」

 言うがはやいか、リンはすばやい手つきでシステムをいじりだした。面くらったジェニーは再度顔をあげてその表情を観察する。あ、これ勝手にいじっちゃっていい? やりはじめてからきくことではないとは思ったが、とくにとめる理由も見つからない。

「せめて、こわさない程度にね」
「あはは」

 そんなへまをやるはずがあるものか、とでも言いたげな笑いかたである。どうやらおねがいじみたジェニーの注意は、彼女にはジョークにきこえたらしい。まあ、実力に見あった自信があるのはいいことだ。
 たったの片手だけをつかった作業は、さっさと終了した。あらためてジェニーが画面へとむかいあうと、なるほどたしかにそこにあるデータは格段に整理され、把握しやすくなっていた。

「へえ、さすがね」

 ほぼ無意識に、賞賛の声があがった。つぎの瞬間にはおっとと思う。彼女にたいする評価を口にしたところでどうにもこじれてしまった過去があるので、こんどもいったいどんな反応がかえってくるのか予測できない。となりの表情を盗み見ようにも暗い右側にいられてはどうしようもなく、わかりやすく顔をあげて堂々とするしかなかった。少々ぶしつけな自覚はあったがじっとその顔を見ると、リンはまばたきをしてから頬をかいた。それからとなりの座席にすとんとすわり、あらたまってジェニーにむかいあう。

「あーっと。こないだはすみませんでした。生意気な口をききました」

 とんでくる詮索の視線にこたえるように、頭のうしろに手をまわしながら、リンはかるい口調で謝罪した。まさかそうくるとは思っていなかったジェニーは、ぱちぱちまばたき。とはいえ随分と無関心な言いかたである。誠意もへったくれもなく、あやまる気もとくにはないといった感じだ。またまた、なにをかんがえているのかわからない。

「いやだ、べつに気にしていないわ」
「そうなんですか?」

 我ながら随分とわかりやすい嘘だったが、わざわざ本音を言う場面でもあるまい。それでもリンはそれ以上にくいさがってくることはなく、ふうんと鼻をならしてから背もたれに身をあずけてぐっとのびをした。なんだか力がぬけたように見えるのは、いままではそれなりに気をはっていたのだろうか。どうやらきょうの本題はこれだったと見える。ではやはり、先程の謝罪は誠意をもっておこなわれたのか。それとも。

(ただの私に話しかける口実かしら)

 うぬぼれた憶測がたってしまい、思わず笑ってしまった。すると自分を笑われたと思ったのか、リンが不服そうにまゆをひそめた。気をとりなおすように、ジェニーはとんと頬杖をつく。

「でも、よかったわ。きらわれちゃったと思ってたから。それとも、もとからきらわれてたか」
「なんですか、それ。きらいかきらいじゃないかと、あやまるのとは別問題だと思いますけど」
「そう?」
「たとえきらいな相手だったとして、こっちに非がある自覚があれば詫びをいれるくらいはするよ」
「ふうん……ってことは、やっぱり私のこときらいなのね」
「べつにそうとは言ってないです」
「じゃあなんて言ってるの?」
「……先輩とは相性がわるいのかな、話してるとつかれる」
「そ? 私はたのしいけど」

 適当なことを言えば、あきれた視線がとんできた。先程あそばれたのだから、多少のしかえしをする権利はあってしかるべきだろう。すこしは満足したジェニーは、あらためてコンピュータをのぞきこんだ。すると、リンもまたそばによっておなじところを見る。さっさとたちさられるかと思っていたので、意外だった。

「リンさんは、あまりディンギーは得意ではないのね」
「あー。はあ、まあ」

 彼女の成績を照会し、画面に表示する。あんまり興味ないですね、こういうのは。まったくわるびれるようすもなく、ヨット部員たるリンがヨットにたいする関心のひくさを露呈する。ともすればこの部活に所属している意義を問えるところだが、なにしろ我らがヨット部である。所属動機はひとによってまちまちなのだ。

「先輩は、こういうのもやっぱり得意なんだ」

 こんどはリンがキーボードをたたき、ジェニーの情報をひきだす。先程のリンのものとくらべると格段の差だ。とはいえ、ジェニーにはこれは実力というよりやる気の差に見えた。

「さすがというか、なんというか。先輩ってやっぱりなんでも完璧にできちゃうひとなんですね」
「ええ、よく言われるわ」

 冗談めかしたリンの声とはふつりあいな、ぴしゃりとした返事があった。不意をつかれた彼女はきょとんとして、となりを見る。ジェニーは唇のはしをかるくもちあげながら自分の成績をながめている。

「すみません、気にさわりましたか」
「いえ、全然?」
「……」

 どこかでやったようなやりとりだ。リンは少々うんざりして、肩をすくめる。それ、どう解釈すればいいんです? さあ、どうぞおすきなように。くすくすと笑い声、リンの口からちぇっと舌うちがもれた。少々ふざけたつもりの彼女だったが、ふと、ジェニーのほうは真面目な思案顔をする。それから、無意識みたいなにつぶやいた。結局はね。

「結局は、私だからできるんじゃなくて、やろうとしてるからできるだけの話なのね。もちろんわかってるわ、結果がすべて。だから、結果に言及されるのは当然よね。でも、過程があるから結果がついてくるんでしょう? やろうとするから、できるのよ」
「……つまりは、結果をほめるんじゃなくて、それにいたるまでの過程の努力をほめろってこと?」
「うん、なんだかそうきこえる言いかたになっちゃったわね。そうじゃなくて、私が言いたいのは、私が特別だからできるんじゃない、私はふつうにやるべきことをやっているだけだってこと」
「やるべきことやってるだけって範疇じゃすまないと思いますけど、先輩の場合」
「あなたはやってないからそう思うのよ」
「先天的な差ってのはやっぱりあると思うな」
「たとえば、あなたのハッカーとしての才能はそういうのにあたるでしょうね。でもいま言ってる話は学業だとかそういう面のことでしょう? みんながおなじものをもとめられて、みんながおなじくこたえられるはずのものよね、それって。私はそういう枠のなかでできるかぎりのことをしているだけ」
「はあ、次元がちがいすぎてついていけません」

 リンが両手をあげて降参すると、ジェニーは我にかえったようにまばたきをして、笑った。ごめんなさい、説教くさいこと言ったわ。こういう性分なのよ、大目に見てね。舌をだしておどける彼女は、本当に照れているようだった。
 ジェニーはもどかしいのかもしれなかった。常に文武両道だなんだと賞賛の的であるだろう彼女にとってのその評価は、だれもがえられるはずのものだった。みな、ただやらないだけの話なのだ。

「きっとね。私にとっては全部ふつうのことなの。だから、それを評価されてもなんの感慨もわかない。朝起きて、三度の食事をとって、夜に寝る。こんな当然のことをしてほめられたって、とまどうだけでしょう?」

 それをいまの話の結論にすることにしたジェニーは、そのままきょうの活動もおわりにすることにした。コンピュータをシャットダウンしにかかり、するとそのよこでリンがふむと腕をくんだ。

「やっぱり、なんつーか。次元がちがうなあ。あたしの場合朝起きてちゃんとごはんたべて夜寝るだけで、ほめられそうなもんなんだよね」
「……あなた、それって」
「おっと、しまった。説教くさい性分のひとのまえでする話じゃなかったです。いまのはわすれてください」

 さっそく説教モードへとはいりかけた気配を察知し、リンはひょいとたちあがる。それじゃあ、あたしはかえります。さようなら。有無を言わせず唐突なわかれのあいさつをし、リンはまるでにげるように、するりとジェニーをかわすようにいなくなった。

(……おもしろい子)

 のこされたジェニーは、最後のあたりで彼女が言わんとしていたことを思った。まるで、世の中にはいろんな人間がいるのだと、自分の基準をすべてにあてはめるなとでも言いたげだった。なんとも、一理ある話ではないか。説教くさいのはいったいどちらだというのか。なんだか、すこし笑ってしまった。

「うん、おもしろい子だわ」

 思わず、つぶやきがこぼれる。ジェニーはすこしおくれて帰り支度をはじめた。おもしろい少女は、つぎにあうときはいったいどんな顔をしているのだろう。きょうこんなに話をしても、あしたになったらつんとそっぽをむいているかもしれない。気まぐれで勝手な彼女は、やはりつかみどころがないのだ。そうか、と、思いあたる。

(なんだか、猫みたいなのね)

 ジェニーはコンピュータの電源がすべておちていることを確認し、すっかり真っ暗になった室内をながめる。なんだかそれは、これからの展望の闇雲さに感じられる。

(そう、にてるんだわ、あの子。猫ににてる)

 ジェニーはなぜだか急に、むかし猫をかいたかったことを思いだしていた。
 
12.06.10