「おつかれさま」
シミュレーター室にあるディンギーのひとつに、オペーレション室から声がかけられる。ゆっくりと口をあけたそれのなかにいたリンは、うえのほうからのぞいている監視役を見あげて肩をすくめたのだった。
「きょうはわざわざおつきあいただき感謝します」
「私が自分でそうしたいと言ったのよ」
「しってます」
部室にあるコーヒーメイカーの電源をいれて、リンは肩をまわした。本来の部活動の時間はすっかり終了しているので、そこにいるのはリンと監視役たるジェニーだけだ。
白凰女学院ヨット部といえば噂にことかかぬ集団である。そういえばリン自身も中等部時代にヨット部の先輩から悪巧みめいた頼みごとをされたことがあった。おもしろそうだと思った。つまらないよりはたのしそうなほうがよかった。ヨット部が所有している分不相応な練習帆船にも興味があった。そして、実際この部活はおもしろかった。とはいえ。
「やってられないって顔ね」
「すみません、顔にでやすいんです」
「あはは」
よく言う、とでも言いたげに笑って、ソファに腰かけたジェニーはリンのいれたコーヒーをうけとる。
「しかたないわ、一年生のうちであの課題をすませていないのはリンさんだけだったもの」
そう、ヨット部はなかなかのスパルタだったのだ。もとはといえばきのうの部活にでなかったリンがわるいとはいえ、翌日即座に居残り補習で先輩までつきあわせる羽目になるとはとんだ計算ちがいだ。おまけに課題の内容はいちいち意地がわるい。よっぽどいかさまをしてやろうかと思ったが、どうにもその気がおきなかったのはどういうわけだろう。
(こっちにまで意地なんてものができちゃってるってわけ)
先日見たジェニーのシミュレーションの成績を思いうかべて、リンは顔をしかめた。これは敵愾心か、反抗心か、はたまたもっとべつのなにかなのか。彼女のとなりにすわり、手にもった紙カップの中身を見おろす。黒い液体からはゆっくりと湯気がたちのぼっていた。
「きのうは、学校もやすんでいたんだってね」
「あー、はい」
「体調不良?」
「いや、学校にいくのをわすれただけです」
「……」
学校にいくことをわすれるって、ありえることなの? あんまり真剣に質問されて、リンは思わず笑ってしまった。するとむこうが憮然としたので、意図せずからかったかのような反応になっていたことに気づく。
「いや、本当に。寝すごしちゃったんだよね」
「不真面目ね」
「自分でもろくでもないと思いますよ、まったく」
「学校がきらいなの?」
「いや、どっちかというとすきです。部活たのしいし」
「さっきやってられないって顔してたのに?」
「そうでしたっけ?」
まあ、そうはいっても、親にいけと言われるからかよってるって程度ですけど。学校なんて。ちびちびと口をつけていたカップをくいっとあおると、コーヒーはおもったよりまだ熱かった。あち、と思わず舌をだした。
「リンさんのご両親ってどんな方なの?」
しかしジェニーにはそんなことは気にもならないようで、思いがけない質問があった。ついとなりを見れば、彼女はこちらを見ていた。現在片目が機能していないとは思えないほどしっかりした視線に見える。先程ジェニーのよこに腰かけるとき、リンは右側にすわるか左側にすわるかすこしだけまよった。結局いまは左隣にいる。ソファのまえのひくいテーブルにコーヒーのはいったカップをおいて、リンは手と足をくむ。
「どんな親からこんなろくでなしがうまれるのかって?」
「いやだ、そんなことは言ってないわよ。私はあなたをろくでなしだなんて言ってません」
「そうですか。べつにふつうのひとたちですよ。保護観察くらった娘をろくでなしだってしかりつけるくらいにはね」
リンがつんとした声で言うと、一拍おいてからジェニーもカップをテーブルにおいた。しまったと思った。なにをくだらない話をしているのだろう。いったいなにを言わせたくて、ひょっとしてこまらせたかったとでも言うのか。きまりがわるくなって、リンはそっぽをむいた。
「そう。いいわね」
すると、ジェニーの返事は思いもよらぬものだった。反射的に視線をもどすと、ジェニーはもうこちらを見ていなかった。
「私は、親にしかられたことってないのよ」
「そりゃあ、先輩ほどできがよけりゃ、ほめることはあったってしかることなんて」
「残念ながら、ほめられたこともない」
「……。それはまた、ふしぎな話だ」
リンがこたえあぐねるようなひくい声をだす。手持ち無沙汰で、ついつい手放したはずのカップをまたつかむ。ジェニーは、冗談めかすように笑った。しかられるだけ愛されているということだ、とでも言いたげだ。
「でもね、嫌味を言われることはよくあるわ。うん、いまのは全部父に限定した話なんだけど」
それなのに、すぐに彼女の顔色はくもる。すくなくとも、リンにはそう見えた。くんだ足のうえにほおづえをつき、ジェニーはすっとまえを見つめる。
「私は、父のことがきらいなのかしら」
無意識のつぶやきは、しかし残念ながらちゃんとリンにまでとどいていく。ジェニーは、おなじく無意識に自分の右瞼をなでていた。
「リンさんは、ご両親のこと、すき?」
「……いや、どうかな。あんまりそういうことってかんがえたことがない」
「そうよね、私もそうだわ」
すきだとかきらいだとか、そういうことは些末なことだった。ゆるがぬことは、ジェニーにとっての父親はたったひとりだという事実のみ。いつもゆくさきをさえぎるその影は、彼女にとって目をそらせぬ存在だった。しかし彼はジェニーをかえりみない。彼は常に、ドリトル家のためだけに存在しているかのような立ち振る舞いをした。まるで、自分のまわりにいるものすべてすらもそうあるべきだと、そう主張しているようにジェニーには見えた。
「……私ね、ちいさいころ、父の血は青色だって真剣にしんじていたのよ。でも、もちろんそんなわけはないのよね」
彼の血は真っ赤だ。ジェニーとおなじ赤色だ。彼女のなかには、父親とおなじ血がながれている。真っ赤な血がながれている。まるでつかえるものはすべて利用すると、そうすることを厭わないようなつよくつめたい父とおなじ。いつかリンに言われたとおりだった、ひとを利用するのが得意な血筋をついでいるにちがいなかった。そういえば、いったいどうして父の血が赤だと思いしったのだったか。現実逃避じみた思考にいたったところでジェニーはふっと息をつき、右目をこするようにしてからとなりの子にむきなおる。
「ごめんなさい、つまらない話をしたわ」
「いや、つまらなくはなかったですけど」
「そう、そう言ってもらえると、すこしは気が楽だわ」
「でも、なんであたしにそんな話をしたのかはきかせてもらいたいです」
リンはちゃんとジェニーを見ていた。意味などというものがいまここにあるのかリンには断定できなかったが、無意味ならばそうだとはっきりつげてほしかった。ジェニーはしばらくだまっていたが、すぐに口元をゆるめる。
「あなたのこと見てるとね、なんだかむかしのことを思いだしちゃうの」
「なんで?」
「なんでかな……きっとちいさいころ、猫をかいたかったからかな」
じつに突拍子もないことばだったので、リンは困惑をこれでもかと表現するようにまばたきをするしかなかった。しかしジェニーのなかではちゃんと話はつながっているらしく、それですっかり説明をおえた顔をしている。でも、結局そんなことだれにも言うこともなかったな。それどころか、思い出にふけるかのような目までしはじめた。
「なにそれ。むかし猫をかいたかったから、あたしのこと見てるとむかしを思いだすって?」
「ええ、リンさんって、なんだか猫ににてるわ」
「……」
返事のしかたにこまっていると、ジェニーはすこしたのしげに笑う。
「私ね、最近昼休みはいつも食堂のきまった席でお昼ごはんをたべてるの。入り口からいちばんとおいところのはしっこね。そこから中庭がよく見えるんだけど、いつもぽかぽかしていそうで、猫がお昼寝するのにぴったりだなって思うのよ」
あなた、お昼はいつも中庭なのね。ヨット部の子たちといっしょに、お昼ごはんをたべながら寝てるんだわ、猫みたいにね。さらりと言って、ジェニーはすっとたちあがる。呆気にとられていたリンは反応がおくれる。
「それじゃ、コーヒーごちそうさま。おいしかったわ」
「あ…いや、こちらこそつきあわせちゃってすみませんでした」
「気にしないで。でもこれにこりたなら、部活はちゃんとでるように。というか、学校にはちゃんとくるように」
冗談めかした説教をして、ジェニーはまた笑う。まるでおだやかな表情でリンを見おろし、きっとそんなつもりもないだろうにリンをひるませた。
「……」
さようなら、またあした。と言いのこしてジェニーがいなくなってからも、リンはしばらくぼんやりしていた。コーヒーはすっかりさめている。時計を見れば、そろそろ最終下校時刻も間近にせまっている。ついつい、表情がゆがんでいく。
(いつも、見てたって?)
彼女はなんとなく頭をかいて、つめたいコーヒーをのみほした。