放課後の食堂となると、人影はほぼない。ひろく天井の高いこの空間は窓からさしこむほのかな陽気もあいまってとても開放的だった。しんとしずまったそこで、しかしひとりの少女は似つかわしからぬ陰気なふうに眉をよせていた。
「……」
見えやしないじゃないか、と、ことばになりそこねた気持ちが口先でわだかまる。とあるテーブルについている彼女は、そっと椅子の背もたれに身をあずけた。立派なそれがぎしと音をたて、胸のなかの感情もちょっときしむ。食堂のはしっこ、ちかごろのだれかの特等席だ。正面のおおきな窓からは中庭がのぞめ、きれいな芝生がきれいにひろがる。ぼんやりとそれをながめて、彼女は頬杖をついた。どうにもたちあがる気がしないのはいかがなわけなのだろう。ああ、どうしよう、どうやらこのままねむりにおちてしまいたい気分らしい。背中がまるまり瞼がおちる。
「なにをしてるの?」
そんな姿に唐突に声をかけるとは、なかなか思慮のかける行為だった。瞬間その肩はびくつき、まさに油断していたという顔がふりむいた。そこにいた人物は、ああごめんなさい、おどろかせたかな、と自分こそおどろいていた。それはそうだ、このひらけた場所でここまで接近している人物の気配を察知できていないとは思うまい。こほんと咳払いをして気をとりなおしてから、そろそろ部活がはじまるわよ、と予期せぬ来訪者は言った。
「……。ええと、フローラ先輩」
「あ、いま一瞬私のなまえ思いだせなかったでしょう」
「はい」
「……素直でたいへんけっこうだわ、リン・ランブレッタさん」
口のはしをひくりとさせてから、フローラはあてつけみたいにリンのフルネームを言った。しかし暖簾に腕押しといったふうに彼女はけろりとした顔のまま。なかなかかわいい後輩ではないか。フローラは腕をくんで、先程の問いかけをくりかえす。
「で、なにしてるの、こんなとこで。こんな時間に」
「ジェニー先輩って嘘つきなんですか?」
「……」
場つなぎみたいな質問は、しかしむこうからの質問によってすっかり拒絶されることとあいなった。呆気にとられたフローラは目下の後輩の目を見おろして、ぱちぱちまばたき。まっすぐなその瞳からなにかを読みとる努力をしたが、あまり成果はないようだ。だからしばらくかんがえてから、ねえとリンに声をかけた。
「そこね、私がいつもすわってるとこなの。ちなみにジェニーはその右隣」
「……」
リンはわざわざたちあがり、席をひとつずらした。それから窓のそとを見る。ななめうえからのぞいたその表情には、呆れとかばかばかしさとか、そういう幻滅めいた気持ちが見えかくれ。フローラはまた思案して、先程までリンが腰かけていたところにすわる。とくに話をしたこともない後輩は意外そうに先輩を見、どうしたらいいのかわからない顔をした。気まずいならたちさればいいだろうに、質問をした本人がこたえをきかずにいなくなることを気にするたまでもなかろうにふしぎなものだ。
「そうそう、最近ジェニーはいつもここでお昼をたべてるのよ」
「そうなんですか。ところで先輩はこんな時間にこんなところへなにしに?」
先程自分はこたえなかったくせに、リンがおなじ質問をする。フローラはとくに気にしたふうでもなく、うんとうなずいてからきょろきょろまわりを見たり身をかがめて足元をのぞきこんだりした。そしてあったと声をあげて、テーブルのしたにもぐらせていた上半身をもちあげる。
「わすれもの。というより、おとしものかしら」
彼女の手のなかには単語帳があった。午後いちばんで古典の小テストがあったからね、昼休みにちょっと勉強してたのよね。いつのまにかなくなってたんだけど、たぶんここかなって。
「ちゃんと見つけられてよかった」
「アナクロですね」
「自分でこういうのつくるとけっこうおぼえられるのよ。案外便利だし」
「そうですか……」
興味のない返事をして、リンはすこしだけ唇をとがらせた。自分は腰をあげる気はないくせに、隣人にはさっさとたちさってほしいという顔に見えた。
フローラには、随分と意地のわるいことをしている自覚があった。警戒心のつよそうなこの後輩が、思いがけぬなまえを自ら口にしたのだ。それが反射的なものだったのかなにかの思惑があってのものだったのかはフローラにはわからない。ただ、それを無視されている現状が彼女にとってつまらないものであることはよくわかる。
そう、先程からなんどか話題にのぼっているあの子の、お気にいり。彼女は、この後輩のことをしりたいとすこしばかり思っていた。それがお節介で身勝手な気持ちであることはわかっているので、本当に深入りするつもりはない。その気になればなにがしかをききだせそうな可能性はあったが、必然性は存在しないのだ。フローラはかるく息をつき、となりのリンをながし見た。ふうん嘘ね、と話題をほりかえすと、ぼんやり遠くをながめていた彼女がぴくりと反応する。案外わかりやすいのか、それとも現在余裕がないだけなのか。はたしてどちらが正解なのか、フローラにとっては意味をなさない疑問だった。
「ジェニーになにか言われたの?」
「いや、べつに」
「そう。……そうだな、私はあの子に嘘つかれたことなんてないけど。でも、そうねえ」
ジェニーはさ、真面目そうに見えて、いや、実際真面目なんだけれど、それだけじゃないというか。彼女は思わせぶりに言ってからたちあがる。リンを見おろして、なにかを思いえがくように口元をほころばせる。
「けっこうおもしろいのよ、ジェニーって」
曖昧な人物紹介は、リンをすこしひきつける。フローラの真意を読もうとする視線がとんできて、それをいなすように彼女は食堂にあるおおきな時計を見あげた。さて、そろそろ本当に部活がはじまりそうだ。
「さ、はやくいかないと遅刻しちゃうわよ」
「……はあ」
「あら、部活にでたくないって顔だけど、体調不良? ただのさぼりだって言うならひきずってでもつれてくけど」
「もちろんでます。さぼってもろくなことがないってのはこないだ身にしみました」
果たしてそれは先日の居残りシミュレーションのことだけなのだろうか。そういえばそれにはジェニーがつきあったらしいということを思いだしたフローラは、そのときあったであろうなにがしかを憶測してひそかに笑った。そしてさらには、内容まではわからないにしてもきょうの部活がおわったあとにくりひろげられるであろう問答のことも思いえがいて、とてもたのしくなった。
「なんで嘘ついたんですか?」
そしてフローラの思ったとおりに、リンは部活がおわりみんなが家路についたころを見計らってジェニーをよびとめるのだった。ふたりだけの部室のなかで、そのかるい口調はすこしういていた。彼女はまばたきをして、帰り支度をしていた手をとめた。
「嘘?」
「……」
しらをきるような顔をするジェニーがしんじられなかった。リンには、彼女が嘘をつくような人物には見えなかった。しかし、あれはたしかに偽りだったのだ。食堂からは中庭がよく見えると言っていた、いつもひとのことを見ていたと言っていた。しかしながら。
「てんで見えないじゃないか、あの席からなんて」
そう、たしかに中庭はよく見えるロケーションだった。ただし、リンがいつも友人とすごしている場所はどうがんばっても見えない。ここしばらくはありもしない視線が気になって昼寝もできなかったリンは、ついにジェニーからの見晴らしを確認しにいくような真似をしてしまった。あれがただのからかいだったとは思いもよらず、というまのぬけようだ。
「……」
じっとジェニーを見るが、しかし彼女もこちらをながめてばかり。ふしぎがっているようにすら見えるその表情は、リンの神経を逆なでする。こんな嘘つきに気分を害されるなんてまっぴらだ。もうどうでもいいということにして、彼女はきびすをかえそうとした。瞬間、ああ、と納得した声。
「ごめんなさい、言いかたがわるかったんだわ、きっと。かんちがいさせちゃったみたいね」
悪びれない謝罪がとんできて、リンはいまいち意味を把握しきれない。はあ、と乱暴にききかえすと、ジェニーは微笑むように目をほそめた。
「たしかにね、食堂から中庭がよく見えると言ったわ。あなたはいつもお昼は中庭ですごしているのね、とも。でも、あそこからあなたがよく見えるなんて、ひと言だって言ったかしら」
私、昼休みに中庭でお昼寝をしてるあなたをなんどか見たことがあったから、きっといつもそうなのねってたずねてみただけよ? 性懲りもなく悪びれぬ口調で、ジェニーはさらさら種明かしめいたことを言う。
「……」
リンは唖然としていた、残念ながらそうするしかなかった。まったくもって思いもしない展開だ。なんだって、かんちがいだと? そのせいでむこうのことばをいちいち気にして、わざわざどういう具合か確認しにいったことまで白状してしまった。おまけにそんなたのしげな顔であやまられては、ねらってややこしい言いかたをしたようにしか思えない。リンは、とにかく、すっかりことばをうしなっていた。
(けっこうおもしろいのよ、ジェニーって)
ふと脳裏にうかんだフローラの台詞。ひょっとしてこれのことを言っていたのか。おもしろいだと、なにをのんきなことを言っているのだ、これはおもしろいというよりは、むしろ、むしろ……。
「むかつく……」
唖然としたまま思わすこぼれた本心、それをきいたジェニーは、少女の可憐さで首をかしげ、無邪気なこどものようにくすりと笑うのだった。