朝といえば静寂、というのがナスターシャの信条だった。例えば道を歩いても誰もいないし、そもそも雰囲気がまるで空の上にいるような浮遊感を孕んでいる。そう信じている自分を空の上になんていったことないくせにとからかいながら、ナスターシャはいつものように早朝の登校路を歩く。けれども、今日は普段と具合が違う。静寂とは程遠く、頭上の傘を無数の水滴が弾くのだ。

(雨ってすきじゃない)

 うるさい上に、自転車に乗れない。自宅から学校までの道はきらいじゃないけど歩くのはきらいなんだから、とナスターシャはひとりでため息をついた。いつもよりも時間をかけて辿りついた誰もいない学校の玄関は、少しだけ気配が冷たい気がした。ナスターシャはとんとんとかかとをならしてからしとしとと鳴る外を見る。夏の雨は特にきらいだと思った。

「あれ」

 今日も一番乗り、のつもりだった。しかし教室のドアをがらりとあければ、いつもとは違う空気。自分のひとつ後ろの席に、意外な人物が座っていた。

「……早いのね、今日は」

 思わず呟くと、窓際で雨の景色を眺めていたエリスはやっとこちらを見た。薄い髪の色にひどく白い肌色と、簡単に折れそうな肢体の同級生。ちらりときれいな黒板を観察しながら近づいて、馴染みの机に鞄を置いた。

「いつもは、一限目いないほうが多いのにね」
「……ナスターシャ」
「うん、おはようエリス」

 腰を下ろして体を椅子ごと後ろに向けてエリスの顔をうかがった。あまりに自然に話しかけられた自分に拍子抜けて、それ以上に名前を呼ばれたことに驚愕した。まさか名を覚えられているとは思いもしないのだ。ナスターシャは後ろの席の同級生とまともに言葉を交わしたことがなかった。それは彼女が例外であるわけではない。エリスは誰とも親しくない。無愛想で静かな、容姿の端麗な皆と同い年のこの少女は、敬遠されるに足る存在感を持っている。そもそも、彼女自身がまるで他人に興味がないような振る舞いをするのだ。ナスターシャは、エリスと友達になりたいと思っていた。

(まさかこんなチャンスが訪れようとは)

 しかもきっかけはいとも簡単につかめた。勢いとタイミングの大切さを実感しながら、意外と勇気のないナスターシャは身を乗り出す。

「ねえ、なんで今日はこんなに早いの」
「……早く起きたから」
「そうなの」

 不思議そうに首を傾げて、エリスがナスターシャを見た。

「ああ、あたしはね、いつもこれっくらいに来てるの」
「ふうん……」

 食いつきの悪い反応に、今の間はそっちこそと言っていると思ったのに、と今度はナスターシャが首を傾げる。それでもすぐにまあいいと思い直してふと笑ってみせた。

「朝のね、誰もいない教室で小説を読むのがすきなの。静かなのって、よくない?」

 暗に、物静かなあなたも好みなのよ、と示してみても、まあおそらく気づかれはしないだろう。ナスターシャは自分が回りくどいやり方を得意としていないのを知っているしわざとらしいくらいが自然だとわかっているから、基本的にはという限定はつくにしても言葉を濁したりしない。

「ねえ、エリスは部活はいってる?」
「はいってない」

 先程から簡素な返事が一言ずつしか返ってこないが、それが不思議と不快ではない。原因は彼女がしっかりとこちらの目を見ているからだろうと思った。他人嫌いなイメージとずれたその態度に、ナスターシャは俄かに興奮した。エリスは多分、皆の、もしくは自分自身の持っている彼女の像とはかけ離れた人間だ。

「じゃあ、一緒にテニスやろうよ、テニス。あたしテニス部なの」

 つってもあんまり真面目じゃないけどね。苦笑しながら言ったら、エリスに興味ないとあっさりと切り返されてしまった。一瞬の間。

「ねえ」
「え?」

 ぎくりとした。先程からずっと、ナスターシャばかりが話しかけていた。しかしここでの急なむこうからの呼びかけである。急に緊張した。彼女は、自分が自分のペースを維持できなくなった場合の対処が極端に下手であることも知っている。だから、勢いを保つためとはいえ調子に乗りすぎた。ゆっくりとしたエリスの瞬きを観察しながら、ナスターシャは息をのむ。

「きょうは、どうしたの?」
「……」

 エリスの疑問ももっともだ。今まで名を呼ぶことすら稀だったただの同級生がぺらぺらと話しかけてくれば、人当たりのよい自覚のあるナスターシャでも怪訝に思うところである。ええと、と思わず歯切れが悪くなり、渋々と頭をかいた。

「ごめん、急に。迷惑だった? あたしはたださ……」
「そうじゃなくて」

 あなたと友達になりたくて。続くはずだったその言葉は、予想外の否定に遮られた。思わぬことにきょとんとしていると、今日は小説を読まなくていいの、とエリスが言った。小説。ナスターシャは数秒かけて反芻してから、先程の自分の台詞を思い出し、同時にひどく安堵した。彼女は話を聞いていたし、自分を拒否することもなかった。いいの?と返事をしないナスターシャにエリスは再度問いかける。ナスターシャはそれに嬉しそうな笑顔を返しながら、自分の調子のよさに内心苦笑する。

「いいのよ、だって今日はエリスがいるもの」
「……」
「あ、邪魔だって言ってるんじゃないのよ。折角だからあなたと話がしたいと思って」
「でもわたしは、別に話すことなんてないよ?」
「……言ってくれるじゃない」

 歯に衣を着せない物言いに思わず笑うと、エリスが不思議そうに首を傾げた。やはりはかり知れない人物だと思う。そして今、ナスターシャは昨日まで以上にこの同級生に関心を持っていた。この子と折角同じクラスになって、それで親しくならないなんてきっと人生を損するに決まっている。

「朝から雨なんて、滅入っちゃうね」
「うん……」

 ナスターシャが窓の外で音を立てる雫たちを流し見れば、エリスもつられたように視線をすべらせる。教室には、まだ彼女たちしかいない。静寂、少なくとも今自分と彼女の間にはそれがある、とナスターシャは信じた。
 突然エリスが立ち上がった。もちろんぎょっとしたナスターシャは彼女を見上げる。

「え、どうしたの」
「……おなかが痛い」
「は?」

 けろりとした顔が、やっぱり今日は帰ると続けて言った。

「え、ちょっと、うそ……」

 明らかに仮病だった。それでもエリスは机の横にかけた薄い鞄を取って歩き出す。

「ちょ、ちょっとお……」

   背中に情けない声をかけても振り返らない。ナスターシャはしばらく呆然として、彼女が教室を出る一瞬前に発した笑顔付きのばいばいという声を、すっかりエリスの気配が消えてしまってから認識した。我に返ってから窓の外を見おろしていれば、間もなく青い傘が視界を横切っていく。三階から見た丸い輪郭に、本気で帰るんだとやっと納得した。

(気に障ること言っちゃったのかな)

 やはり不思議な子なのだ。学年が上がってちょうど三ヶ月、すなわちクラスが一緒になって三ヶ月。ナスターシャは、昨日よりも少しだけ明日が楽しみになった。椅子ごとエリスの席のほうを向いたまま、教室内を見渡す。それからも昨日までと少し違った趣きを感じて、朝のすきな少女は自分のものでない机に突っ伏した。

(乙女かよ、ばかだあたし)

 雨は静寂を崩すし自転車にも乗れないけれど、今回ばかりは幸福を感じざるを得ない。時計を見れば、クラスメイトが集まり始めるまで時間がある。きっと今日は一日ずっと自分は機嫌がいいだろうと見当をつけながら、ナスターシャは鞄の中から読みかけの小説を取りだした。
  
08.07.09