「失礼ね、ひとまわりもちがわないわよ」
「そうだっけ」
車の窓越しの夜景はざわざわと騒がしく明るかった。夜なんだから夜らしく沈んどけ、とナディは心中呟いて、締め付けるシートベルトを撫でた。ジョディ・ヘイワードの愛車は外国製のものらしい。有名な車種らしいが自動車に微塵も興味を持てないナディにとってはただの真っ赤で派手な乗用車だった。
「なんかね、いるのよ。いつのまにか」
「戸締りちゃんとしなさいよ」
「いや、そういうことじゃなくてさ」
ナディはよくジョディにエリスの話をする。と言ってもナディがかの謎の少女と出会ったのはごく最近のことなのでそれに限っての話である。明るい外とは対照的に暗い車内はどんよりと静かだった。
ナディは常々、ジョディからは甘い香りがすると思っていた。長い黒髪からも指の先からもきれいな首筋からも、等しく誘う芳香がナディを刺激する。それを感じるたび、あたしはこのひとにすきだと言ったことがない、とナディは再認するのだ。
「どこにいきたい?」
「先生は?」
「そんな呼び方する子はここで車から降ろしちゃうわ」
横顔が悪戯っぽく目を細める。ナディお気に入りの呼び方は、彼女にとってはおもしろくないらしかった。じゃあブルーアイズは、と言い直せば、彼女はそうねと考える素振りをする。すきだと言うより簡単に、こんな顔をさせることができるのだ。ナディはジョディの普段を思い出しながら、運転席で唇の端を緩ませている予備校の講師を見つめる。なんとなくつけられていたラジオからは、きっと古い歌謡曲が響いていた。
ラーメンが食べたい、と提案すれば、当然のように不満の色が返ってきた。
「こんな夜中に……ふとるわよ」
「それは自分の心配でしょ。こんな夜中にデートに誘ったのはそっちだし」
「あなたにとってデートはただ飯のことなのね……」
おもしろくなさそうな声に、ナディはわからなくなる。彼女の本音がわからなくなった。それはいつものことで、特に気に留めるほどのことでもない。ナディには、ジョディの考えていることなど、寸分も見当すらつけられなかった。
「私はおいしいラーメン屋なんて知らないわよ」
「大丈夫、あたしは知ってる」
夜景はやはり、うるさすぎるのだ。
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車がアパートの前に止まる。静かな停車はナディを我に返らせた。それじゃあまたね、と頬を撫でる指先、その先にあるジョディの瞳が長い前髪から見え隠れしていた。
「おやすみのキスはしてくれないの」
「そんなにんにくくさいお口にはお預けよ」
「けち」
い、と歯を出して車のドアに手をかける。と、瞬間にがちゃとロックのかかる音。驚いて振り返れば、運転手の顔が間近にあった。大きく映る唇は、やはり甘い香りを持っていた。
「キスはしないんじゃなかったの」
「……」
応えの代わりに柔らかい唇が瞼に触れた。浮気しちゃやあよ。大人の声が耳元で、ロック解除の音が背後で響いた。
(……あ)
排気ガスを少々撒き散らしながら走り去る真っ赤な機械を見送って、それからやっとナディは気づいた。誰もいないはずの自分の部屋の窓が、煌々と光を放っていた。
「…やっぱいるし」
呟きながら、ジョディの言葉を反芻する。気づかれてしまった。今更と言えば今更すぎる話。
「また鍵開いてた?」
「おかえりナディ」
「ただいまエリス」
あたしってばもててもててこまってんの、なんて話だ。自慢するような相手もいないから、ナディはただの幸せ者だった。ただしそれはたった一側面から見た結論である。
「合鍵つくっちゃった……」
「ふははは、そりゃそろそろ笑えない」
「……笑ってるのに」
エリスの見ている自分を見てみたい、とナディは思った。
洗濯機をまわしてから冷蔵庫をのぞいた。明日の朝食はただのトースト一枚に決定。
「エリス。今何時かわかってる?」
「2時」
「そうそう夜中の2時なのよ。おうちに帰ったほうがよくないかしら」
エリスはフローリングに横たわって漫画雑誌を眺めていて、制服のスカートから白く細い足がのびている。浮気しちゃやあよ。ジョディの言葉。それから彼女のきれいな唇の輪郭がフラッシュバックする。キスがしたいと思った。
「送るわよ、チャリで」
「こんな時間に出歩くほうが危ないと思う」
「わかってんならそもそも来ちゃだめよ。あたしが家出たの10時過ぎだったから、あんたがここに来たのはそれ以降ってことじゃない」
「大丈夫、なにもなかったよ」
彼女は言葉を発するときほぼ必ず相手の目を見る。おざなりな雑誌がエリスの手元で元気無く横たわっているのだ。上目遣いがすぐそばに立ち尽くす家主の瞳に向かっている。ナディははあとため息をついてからしゃがみ込む。真っ直ぐな目がくっと近づいた。
(かわいい顔)
おしりのそばのスカートを右の指先でつまんだ。徐々にめくりながら視線はエリスの顔に固定したまま。どこまでいけば顔色が変わるか。下品な悪戯心に突き動かされながらキスできる距離まで鼻の先を寄せると、にんにくくさい、とエリスが呟いた。
「はあ?」
「くさいー」
ぶう、とエリスが頬を膨らませる。そんなのはこちらの気分だった。このような顔色の変貌を期待していたわけではない。身勝手に白けて、ナディは右手をはなした。
「そんなにくさい?」
「くさい、……」
ラーメンににんにくは最高だと思うんだけど、とナディが呟いているうちに、エリスがころんと体の向きを変える。背中しか見えなかったはずの目下の光景が、胸元で取れかけている赤いリボンになった。真っ赤。ジョディのあれと似た色。
「なんか、誘われてるみたい」
「じゃあ、誘ってる」
なんだそりゃ。笑いかけたのを堪えて、真面目くさった顔を作る。
「あたしね、今デートしてきたの。そしたら、にんにくくさいとおやすみのキスしてもらえないんだって。ひどいと思わない?」
「ひどいね」
エリスの顔の真横に手をついた。もう片方のそれは先程ジョディにされたように頬を撫ぜる。ごめんねブルーアイズ、思わず心の中で謝罪がもれた。
(キスがしたいの)
浮気しちゃやあよ。ナディは、浮気ってどこからなんだろう、と思いながら目をとじた。