「今日中にロッカーを空にしておくこと。もし持ち帰り忘れることがあったら明日の朝焼却炉の中を捜す羽目になるからな」

 冗談を言わぬ性質の担任がそう言い残して、ホームルームが終了した。明日は一学期の終業式、すなわち明後日からは待ちに待った夏休みである。ナスターシャはもちろん手放しで喜んでいたわけだが、自分のロッカーの有様を思い出して顔面を蒼白にした。教科書の類にコレクションのハードカバーの小説の数々、いつ使ったものかも思い出せないジャージの上下。一瞬考えてみただけでロッカーに放置されたものが目に浮かぶ。述べたとおり我らが担任リカルド教諭は冗談を言わない。すなわちもし放置したまにしておけば本気でそれは焼却炉に捨てられてしまう。

(……無理だ、確実に)

 実際に対峙した現実はより厳しかった。辞書は二つしかないと思っていたのに三つもあった。英和に和英に古語。教室の後ろに並んでいる小さなロッカーの中の自分のものを覗き込みながら、ナスターシャはため息をついた。振り返ればもう誰もいない。友人に訊ねてみればもちろん計画的に持ち帰っていたという返事が返ってくるばかりで、自分以外のロッカーもほぼすべてがすっきりとしている。
 リカルド教諭は厳しく、しかしそれが原因で生徒から嫌われることはなくむしろ慕われていた。髭面の強面ではあるが、生徒に対する情熱が今時珍しいほど真っ直ぐであるところがその要因だろうとナスターシャは思っていた。それをあからさまにせず悪役を買って出る性質もまた、さらには同僚の教師陣からもすかれる要因であった。ただし、教諭本人はそれをまったく自覚していなかった。
 がらりと教室のドアが開く。再度振り返ればエリスがいた。

「どこ行ってたの?」
「ごみ捨て」
「なんだ、言ってくれれば手伝ったのに」

 だってナスターシャは掃除当番じゃないから。持っていたごみ箱を定位置に戻しながらエリスが言った。もう今日の掃除当番は皆部活に行くか帰ってしまった。時計を見てみても放課後になってから一時間は経っている。ごみ捨てひとつするにしても、エリスはいろいろ寄り道をするらしい。

「じゃあ、日誌書くの手伝わせて」
「え?」
「日直でしょ、今日」
「でもナスターシャは……」

 日直じゃないから。そう言いそうな台詞を手で制して止めた。

「もうひとりの日直の野球少年に言っといたわ、今日は代わってやるって」

 だからあたしも日直。ふふんと鼻を鳴らしたら、エリスがありがとうと言った。本当は部活のために日直の仕事をエスケープしようとしていた例の野球部員を見つけただけだった。エリスに全部押しつけようなんていい根性をしている、と思いながら引き止めなかったのは下心があったからだ。礼を言われてしまっては少し良心が痛んだ。とりあえず明日あのクソ坊主に嫌味のひとつでも言ってやることにした。
 結局ただエリスがシャープペンを走らせる様子を観察しながら、ナスターシャは荷物のことを考えていた。長期休みに入るたびいちいちロッカーを空にする必要なんてあるだろうか。なんとか思いついた部室に置かせてもらうという案は二秒で却下。幽霊部員に場所を明け渡してもらえるほどあの小部屋は広くない。玄関の靴箱の上に一時避難させる案も却下だ。目ざといリカルド教諭が見つけないはずがない。

「どうしたの?」
「ん?」
「うんうん言ってるから。悩み事?」
「あー、うんまあ、悩み事っちゃあ悩み事」

 あんな大量の荷物は自転車の荷台には文字通り荷が重過ぎる。ちらりとエリスのロッカーを見てみれば、すっかり空っぽである。仲間であることを少々期待していたのにと肩を落としながら視線をもどせば、エリスが遠い目で窓の外を眺めていた。面食らってエリスと呼びかければ、あっさりとこちらに向き直る。ふうんと思った。

「エリスも悩み事?」
「悩み事……」

 よくわからないけど、と言いながら手元のペンの動きは止まっている。ナスターシャの好奇心が頭をもたげた。エリスに悩み事。なんと不似合いな組み合わせだろうか、失礼だとわかっていながらナスターシャはそう思わずにいられない。悩みとは無関係で淡々と日々をすごしている風にしか見えないこの子が、一体なにに悩んでいるというのだろう。ナスターシャは。ぽつりとエリスが呟いた。

「ナスターシャは恋人っている?」
「……」

 まさかの展開だった。まさか、悩みの内容が色恋沙汰だとは! 勝手ながらエリスには程遠い事柄だと思っていた。ナスターシャは気が急くのを抑えながら、せめて身を乗り出す。

「あたしは、いないけど。もしかしてエリス、恋人いるの?」
「いないよ」
「なんだ、そうなの」

 あっさりとした回答に首をひっこめて、するとエリスはまた手を動かし始める。学級日誌はもう三分の二は埋まっていた。

「恋人って、なにするのかな」
「なにって……」

 そりゃあ、デートしたりとかキスしたりとかね。ラブラブするんじゃないかしら。答えながら、ナスターシャ自身恋人などいたためしがないからすべて一般論だった。エリスはさらさらと学級日誌を埋めていく。きっとエリスはすきなひとがいるんだ、と思った。ゆっくりと冷静になると、彼女はそれに僅かのショックを受ける。原因はよくわからなくて、だけどとてもそれが自分勝手なことに思えた。ナスターシャは思わず黙りこんでしまって、そして普段から口数の少ないエリスは当然のように話をしないから、静かな時間が訪れる。静寂はすきだ、でもいまはあんまりすきじゃない。ナスターシャは居心地が悪かった。

「キスはするけど」
「……」

 唐突に沈黙を破ったエリスに、しかも過激な台詞にぎょっとした。エリスは顔を上げないまま、冷めた声で呟く。キスはするけど、わたしとナディは恋人じゃないよ。いつもと変わらずあまり抑揚がなく静かな話し方だった。なんでもないことのようにさらりと言われて、それでもナスターシャは少しだけエリスが悲しそうに見えて、だけどすぐに別のところではっとする。

「……え、ナディって、女のひと……」

 エリスがぱたんと日誌を閉じる。書き終わったから、出してくるね。そう言ってさっさと歩き出してしまったエリスを、呆然としていたナスターシャはあたしもいくとなんとか追いかけた。

「もうひとりの日直はどうした」

 職員室につけば、リカルド教諭が予想通りの台詞を言った。するとエリスはちらりと隣に立つナスターシャを見て返事の代弁を期待する。それににっと笑って応えて、日直の仕事ぶっちぎって部活行きました、と内心舌を出しながら言ってやった。エリスはきょとんとしていたけれど、あとであれはジョークだとフォローしておけば大丈夫だろう。エリスが仕事を押しつけられた、などという腹立たしい事実はわざわざ教えなくてもよいのだ。

「おまえら、最近仲がいいな」
「え、あ、はい」
「……いいことだ」

 リカルドがすこしだけ目元を緩めた。その視線はエリスを見ている。エリスはあいかわらず無表情だが、ナスターシャは驚いていた。この担任が笑うところなんて始めて見たかもしれない。ご苦労だった、気をつけて帰れ。堅苦しくそう言った担任にふたりでさようならと言って職員室を出た。

「すご、レアなもの見ちゃったかも」
「なに?」
「先生笑ってたじゃない。あは、初めて見た」

 ナスターシャが興奮気味に瞬きをすると、エリスは先程のようにきょとんと首をかしげた。先生は、結構笑ってるよ?事も無げにそう言われてはっとした。

「……」
「なに?」
「……よく見てるんだなと思って」

 ひょっとして自分もよく観察されているのではないかと思って、ナスターシャはなんとなく恥ずかしくなった。自意識過剰だと思ったが、だって相手はエリスなのだ。だがしかし、今はそれどころではなかった。先程のエリスの発言。深く尋ねていいのか迷って、そうしているうちに教室にたどり着き、一気に現実に引き戻された。確かにエリスのことは気になるけれど、今はこちらの問題が最優先なのだ。ナスターシャのロッカーは変わらず散らかったまま。

「帰らないの?」

 エリスはすっかり帰り支度を終えていて、しかしナスターシャは立ち尽くすばかり。帰ろうにもね、帰れないの。肩をすくめてロッカーを指さしてみせれば、エリスがいっぱいあると呟いた。そう、その通り。こんないっぱい持ち帰れないのよ。はははと笑って見せると、エリスがゆっくりと瞬きをする。そして囁くのだ。

「じゃあ、わたしの秘密基地に持っていく? ここから近いよ」

 エリスらしからぬ悪戯っぽい上目遣いに、ナスターシャはどきとするようなぎくりとするような、複雑な気分に見舞われたのだった。
  
08.07.16